ラピュタ・アカデミック

従来にない形で、ラピュタの物語と登場人物の心底を考察する

第4章 パズーとシータの「関係性」を考察

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 いよいよ、パズーとシータについて考察するが、その前に、映画天空の城ラピュタが出来る経緯について触れておきたい。
 ラピュタは、本来あるべきアニメの姿を取り戻そうという目的で創られたという。相手への献身とか、友情とか信頼とか、今クサイと言われつつも誰もが望んでいるものをてらわずに表現しようとした、言わば原点回帰的な要素がある。誰もが共感出来る主人公、誰もが共感出来る登場人物を置き、本来アニメとはこういうもので、子供向けには創られているが、それは大人が観ても十分に鑑賞に耐えうるもの。そういう作品を目指したという事である。これは、今後の核になる部分なのでしっかり抑えておきたい。

 主役はパズーなのか?シータなのか?

 ずばり形式的な事を言えば、主役はパズーである。実際、映画の原案には、「少年パズー・飛行石の謎」と書かれていた。しかし、私が思うにこの映画に関しては、そういう形式に当てはめる事は得策ではないと感じる。物語はラストの方など完全にシータが争点になっているし、第1章でも触れたが、この物語は定型のジュブナイルをぶっ壊して、新しいジュブナイルの形を模索した作品でもあるのだ。だから私が上記の質問をぶつけられたら、躊躇わず
「パズーもシータも、2人とも主役ですよ。」
と答える様にしている。この2人は一心同体なのではないかと思える場面が多いし、その方がピンとくる気がしている。

 ・2人は、「友達以上、恋人以上。」

 上記の題は別にふざけている訳ではない。
 ラピュタで決まって議論になるのが、パズーとシータは友達か、恋人かという話である。
 かなり昔のインタビュー記事になるが、映画の後、2人は直後に一緒に暮らしたり結婚したりしたのかという質問があった。
「それはないです。パズーもシータもまだ子供です
 から。一緒に冒険した友達で恋人では絶対にない
 です。パズーは渓谷へ、シータも自分の谷へ帰り
 ます。(以下略)」
これが監督の答えである。設定ではパズーとシータは13歳らしいが、この言葉をもって2人は友達までと解釈するのは私は早計な気がする。
 そもそも、2人の心底的にはどうなのか?第5・6章でも説明するがシータがパズーを好きになる事は
実は設定に入っているし、パズーもシータを好きである事は、後に説明するが監督自身が仰っている。
 この作品は、子供に観せる映画を意識しているので、敢えて恋人として描かないというのは意図としているだろう。そもそも、恋人にしてしまったら俗っぽくなってしまう。(実は中盤の軍に帰されるパズーにはちょっとその傾向が視られるが。)人間愛とかそういう原点的なものを押し出したいのである。ただ、私目線ではそういう設定がある事でかえって2人がラブラブに見えるのだが。また、監督の言葉は、もう少し大人に近づけば十分その可能性がある事を含んでいる様に感じる。
 我ながら奇妙な題と思うが、これ以降の説明で徐々に納得して頂けるのではないかと思う。

 ・本音と建前 実は色々とやっている
 
 実は上記は建前でこちらが本音かと思ってしまう
話が出てくる。
 宮崎監督のインタビュー記事の本で、「風の帰る場所」と言うのがあるが、ラピュタの話になり、パズーとシータがラピュタに着いた後、2人で喜んで地面に寝転がる形になり、顔を見合わせ大笑いする有名なシーンがあるが、インタビュアーが、あの時2人がキスしなかったのが不満だという意見を言ったが、監督はこう答えている。
「あの場面でキスなんかしなくても、もう2人は十
 分やっています。」
具体的には、パズーとシータが凧に乗り、風に煽られる訳だが、その後「こわい?」とシータに聞くパズーは、背中にシータの胸の感触を感じているからあんなに毅然とした顔をしているのだと言う。最近良く話題になっているアレである。
 しかもその場面は、最初シータはパズーにくっついてなかったり、パズーの表情が弱かったりしたので、監督が、大好きな女の子が小さな胸を背中に押し当てている時に、お前はこんな表情するのか?と説教したというのだ。この記事は過剰に表現され過ぎている気がするが、要は、好きな子の女性の部分を感じとる事で、何としても僕が守らねば!と決意を新たにする所なのである。
 また、こういう話もある、現ジブリの社長である鈴木敏夫さんが、宮崎監督に対して、
「パズーとシータってやっちゃってるよね?」
と聞いたら、監督がニヤッと笑ったという話だ。まあ鈴木さんが仰るのは心底的な意味だろうし、監督が笑ったのは、よく解っているじゃないかという事なのだろう。鈴木さんがラピュタに関して仰っていた事をここに記しておく。
ラピュタの近くまで行って、シータとパズーが狭
 い所で2人で顔を覗くシーンが出るじゃないです
 か?何であそこ、あんなに狭いのかって(笑)。
 それは「くっつけよう」ってだけでしょ?」
 思えば、初見で私自身も上記のインタビュアーと同じ事を考えたが、3年後にはその考えは卒業した。(笑)今の目で見れば、キスシーンよりこちらのシーンの方が意味深にみえるからだ。考えれば凄いシーンである。好き同士が顔と顔が物凄く近い状態でしかも全く照れが無い。そして幸せそうに笑っている。この2人はもうそういう状態は日常茶飯事な状態なの?と思わせるシーンである。
 また、タイトル下の写真も御覧頂きたい。ラピュ
タ庭園の探索で2人が手を繋ぐシーンだが、よく御覧頂ければ解る様に、指を絡ませているのである。俗に言う「恋人繋ぎ」である。これは成立仕立てのカップルでは恥ずかしさや照れが出て出来ないと言われている繋ぎ方なのだ。ここまでくると、一緒に冒険した友達と建前を言いながら、本音では堂々とカップルとして成立させている様に思うのは、私だけではないだろう。

 ・究極の愛と「死の覚悟」という悲劇

 第1章でも触れたが、宮崎監督が敬愛する「雪の女王」という童話は、ゲルダという少女とカイという少年の物語である。仲良しだった2人だが、カイに悪魔の作った鏡の破片が刺さる事で性格が豹変し、更には雪の女王によって雪の宮殿に連れ去られてしまう。生存を絶望視されたカイをゲルダは周りの反対を押し切り、カイを取り戻す為雪の宮殿を目指していく。何度も死にそうな目に会うが、遂に雪の宮殿に付き、カイに会えた事で出た涙がカイの破片を融かし、2人は無事に帰還するという物語だ。
 この話は宮崎監督作品の多くに影響を与えていると思われるが、ラピュタには特にその要素を感じる。ムスカとの最終決戦、パズーは何度も死にそうな目に会いながら玉座の前に辿り着く。シータは、パズーだけは何とかして助けたいので、死ぬ覚悟で敵意を露わにし、両方のお下げをムスカに撃たれてしまう。パズーのバズーカは弾切れ。結局、一緒に滅びの言葉を唱える事を決意する。
「おばさん達のナワは切ったよ。」
某プロが解釈出来なかったパズーの台詞だが、これには大きな意味合いが2つある。まず、滅びの言葉を唱えるというシータの罪悪感を一緒に唱える事で軽減させるという事は誰しもが気づくだろう。しかしもう一つ重要な事は、パズーはシータと共に死ぬ覚悟をしているという事なのである。自分達はどうなってしまうのか分からないが他に方法は残されていない。だから、パズーの台詞はシータを1人で死なせたりはしない。その時は自分も一緒だと言っている様なものなのだ。
 これはもう究極の愛の形であろう。第1章のタイトル下の写真があるが、この台詞を受けたシータの表情は非常に複雑である。貴方となら悔いはないという気持ちと御免なさいという気持ちが複雑に絡んだ表情で、最期を覚悟したかの様に力なくパズーによりかかるのである。
 かつて画家のゴッホは、ある1人の娘に恋をし、恋仲になり、真剣に結婚を意識するのだが、何しろゴッホは生きている間は作品が売れず貧乏で、また当時は絵描きという職業はかなり地位が低かった。
娘の父親は激怒し、ゴッホと娘は引き裂かれるのだが、ある日火のついたロウソクを持ってゴッホは娘の父親に直訴に行く。彼はロウソクの炎に商売道具である自分の右手を翳し、
「私が熱さに耐えられる間だけでいいから、娘に会
 わせてくれ!」
と言ったのである。もしゴッホが存命で、この作品を観たとしたら、愛する者の為に自らの犠牲をも厭わない2人の魂に同じ魂を見い出し、心から拍手を送るのではないだろうか。
 しかし、第1章で宮崎監督は、少年物の冒険活劇は悲劇しか生まないと言った事を述べたが、それはラピュタの崩壊ではなく、将に主人公のパズーに死を覚悟させてしまった事を言っているのだと思う。確かに悲壮感に満ちたシーンだ。ラピュタが苦手な方で、このシーンで心中を連想し鬱になるという意見もあるくらいだ。
 また、ジュブナイルは基本的には助けられる側は死を覚悟しないし、主人公は自分の力で少女を救い出すものである。
 だが、このシーンは沢山の方を感動させた事は疑いようがないし、(実際ベテランのラピュタファンはパズーのこの台詞で涙腺が緩む。)また、新しいジュブナイルの形を創ったという事は再三申し上げた通りである。

 私が題に挙げた、「友達以上、恋人以上」の意味が少なからず納得して頂けたであろうか。しかしながら、こういう話になると必ず、ラピュタは冒険物、そんな視点で観た事はないとか、冒険物に恋愛的な要素は不要だとかいう意見が必ず出てくる。ただ、そういう方にこそ、騙されたと思ってそういう事を意識して御覧頂きたいと思う。きっと今まで見えなかったものが見えてくる筈だ。
 次章では、パズーに焦点を絞ってさらに深く考察していきたい。

第3章 ドーラに関する考察

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 続いては、ラピュタのキーマン、ドーラおばさんについて考察する。私が挙げた4名の中で、ドーラが1番難しいキャラクターだと感じる。最初のドーラと終盤のドーラは余りにも別人だからである。実は、ドーラの考察の際に、私は以前致命的なミスをしている。ドーラおばさんはこの物語に絶対必要な人物なので、慎重に考察していきたい。

 ・モデルは宮崎監督の母親

 これは今では有名な話である。実は監督の母親は病弱であったらしいが、神通力は相当なものがあったらしい。確かにドーラおばさんには監督の思い入れを感じる。こちらもムスカ同様、名文句が多い。
「40秒で支度しな。」
「それでもお前は男かい!?」
「海賊が財宝を狙ってどこが悪い!!」
「お前達も嫁にするならああいう子にしな。」
「シャルル、もっと低く飛びな」
「最後のチャンスだ。すり抜けながらかっさらえ!
 」
 ドーラは海賊の船長で、息子のシャルル、ルイ、アンリと他の部下を従えてラピュタの飛行石と財宝を狙っている。夫は亡くなられた様で、映画に出てくる技師のハラ・モトロは夫ではない。念の為。
 ドーラは最初はパズーの敵と思われていたが、途中から味方になるのは御承知の通りである。この転換期はドーラおばさんの考察の上で絶対に外せない所だ。

 何故ドーラはパズーの家に待機したのか?

 パズーとシータが廃坑の中にいた頃、ドーラ一身も廃坑の中にいた。結局、廃坑を出てしまったパズーとシータが軍に捕えられ、ドーラ一身はその後に脱出した事になる。
 私はある事が不思議に思っていた。それが上記の見出しである。そもそもその前に炭鉱の人達とやりあってるからパズーの家に待機するのはリスクが高いしメリットは無い。要はリスクを追ってでもパズーの家に待機する必要があった訳だが、それは飛行石の為だろう。ドーラは、本編の様にパズーとシータが引き離され、パズーだけがすごすごと帰って来る事が想定出来たので、軍の動向と飛行石が今誰が持っているか等をパズーから強引に聞き出す為に待機していたという事である。
 白状すると、私が考察で大きなミスをしたというのはこの前記の所である。実は、私は列車でやりあったパズーの事を認め、仲間にするつもりがあったのではないかと考えていたのだ。しかし、この時点ではドーラがパズーを味方にする動機は薄いので考え辛い話である。
 実は、ドーラを考察する際には、私はドーラの台詞をそのまま解釈するのは危険だと思っている。何しろ、この人は昔気質の人間でちょっとへそ曲がりな所があるからだ。ハラ・モトロとのやり取りを再現すれば解りやすいだろう。
「ドーラも変わったねえ。ゴリアテなんぞに手を出
 すとは。勝ち目はねえぜ。」
「フン、ラピュタの島だ。無理もするさ。」
「へへ、確かにいい子だよ。あの2人は。」
「何が言いたいのさ!?このクソジジイ!」
「カタギに肩入れしても尊敬はしてくれねえぜ!」
「何だって!?」
 この場面の時は既にドーラはパズーとシータを 
認めてた訳だが、それはハラ・モトロにはお見通しだった訳だ。私はそういう調子で、パズーに仲間に入れてくれと頼まれた後のドーラの台詞、
 「その方が娘が言う事をきくかもしれないね。」
を単なる口実と捉えていた。温情をまわりに悟られるのは嫌だから。しかし、この台詞は凄く小声で言っている為そう思い直して本音で言ったと考えるのが妥当である。天空のスペシャリストなんてかなり恥ずかしいペンネームを名乗っているが、天空の凡人と改名しなくてはなるまい。
 冗談はさておき、ドーラがパズーとシータを認め、力を貸そうと決めたのは何処かはハッキリしている。シータ救出後に、パズーから僕らを船に乗せてくれと頼まれた時である。シータが自分を犠牲にしてパズーを逃したのは既に知っているし、救出の際旗色が悪く引き返そうとしたのに、パズーはシータをかなり遠距離から見つけ出した事、ドーラが石に当たって気絶した際もパズーは見よう見まねでフラップターを動かした事から、パズーの本気を見たからであろう。よくよく考えれば、このよく似たシーンを2回使ったのはドーラの心境が移り変わった事を表現しているからである。また、ドーラの台詞である、
「海賊船に乗るには動機が不純だよ。」
は完全にパズーとシータに対する褒め言葉である。裏を返せば、あんた達は純粋すぎる。海賊船にのせるには勿体無さ過ぎるよと言っているようなものなのだから。そもそも本当に動機が不純と感じているなら2人を海賊船に乗せないだろう。

 ・拘りの盗賊ドーラと、その母性

 そういう訳で、一見怖そうなドーラおばさんはパズー達に心を動かされてしまう訳だが、実はドーラには設定があって、人は絶対殺さないし、貧乏人からはお宝を取らないという拘りを持っているとの事。確かにゴリアテを襲撃した時はマスタード弾を使っていたし、炭鉱の連中相手に投げた手榴弾は恐ろしく能力の低いものだった。(爆発は派手だったが回りの建物が全く被害を受けていない。)パズーが仲間に入れる様頼んだ時も、その前のシータはお前を助ける為に嘘をついたんだという話のやり取りから、パズーはドーラの人間性を薄々気付いたというのはあるだろう。実際、真夜中のシータとの見張りの際に、
「ドーラだって解ってくれるさ。あの人見かけより
 いい人だもの。」
と言っている。
 さて、タイガーモスのラピュタ探索が始まってからはドーラは完全に母親替わりの様な状態である。先程のパズーとシータの会話はドーラに聞かれている訳だが、ここで大事なのは、ドーラが話を聞いていたのは、シータが逃げ出そうとしてないか疑っていた訳ではない。勿論2人を心配しての事である。
 実はこれは映像でも確認出来る。タイトル下の写真はその時のドーラの部屋で、連絡が取れる様に伝声管が繋がっている訳だが、その蓋が1つしか開いてないのである。疑っているなら、シータの行方を追う為全ての伝声管の蓋が開いてなければならない。つまり、シータがパズーを追って最上部の見張り台に行く事はドーラは想定済みだったのだ。
 あと、台詞でも確認は可能である。見張り台を凧にして、いよいよラピュタへという時の台詞、
 「シータ、そこにいるね!?」
 「はい!」
 「お前は戻っておいで!」
 「何故?」
 「何故ってお前は女の子だよ!?」
明らかに最後の台詞は母親の心境であろう。私の言う事が聞けないのかいなんて意味でない。
 また、クライマックスでラピュタが崩壊した後、盗賊の一味があまり悲しんでいない、テンションが普段と変わらないなんて指摘する方もいらっしゃるが、とんでもない勘違いである。ドーラの台詞、
「滅びの言葉を使ったんだ。あの子達は馬鹿共から
 ラピュタを守ったんだよ。」
は私が解釈するに、ドーラが自分自身に言い聞かせていた台詞である。受け入れ難い現実を何とか受け入れようとしていたのだ。そして、その悲しみを和らげるものがラピュタの木の根にある巨大な飛行石だったのだ。しかし、
「木だぁ、あの木が全部持ってっちまう。」
ドーラは飛行石の事を研究し尽くしていた筈である。実際、列車の追いかけっこでパズーとシータが転落しそうな時、飛行石の事を知っているドーラは、静かに、よく見てな!と言っている。なのにこんな的外れな事を言うのは、それ程パズーとシータが死んだ(と思っている)事に動揺している事の証であろう。パズーとシータの命も飛行石もみんな持って行ってしまうのか!?というドーラの悲痛な叫びが聞こえるようではないか。しかし、御承知の通り、2人は生きていて、それを見たドーラは心から喜ぶのだが、完全に飛行石の事は忘れてしまっているのである。
「可哀想に、髪の毛を切られる方がよっぽど辛いさ。」

 話が変わるが、私がこういう形式で考察記事を出しているのは、登場人物の心底は物語を読み解く上で非常に重要と考えるからである。登場人物の心底はそのまま行動原理に繋がっていく。私がラピュタを面白く思うのはその過程がしっかりしているからだと思う。逆につまらない作品は、なんでそう考えてるのにこういう事してるの?と疑問を投げかけたくなる程その過程が破綻している。皆様も似た経験がある筈だ。その事を踏まえた上で、いよいよ次章ではあの2人に登場して頂く。 

第2章 ムスカに関する考察

f:id:sheeta1986:20191212182811j:plain いよいよ本章より、ラピュタの主となる登場人物について考察していく。メインの登場人物と言えば、主人公のパズー、ヒロインのシータ、(敢えて形式上の書き方をしているが、これは第4章では別の持論を展開する。)重要人物のドーラ、悪役のムスカは外せない所。ここでは大人気の悪役ムスカについて考察する。

 ・実は、当初は主役であった!

 最初に言ってしまうが、ムスカの心底についてはあまり考察する所がない。非常に分かり易いキャラクターだからだ。軍の大佐を任され、ラピュタの脅威から世界を守るという口実でシータを拉致し、強引に協力させようとするが、実はラピュタの分家の末裔で世界征服を企んでいたという宮崎アニメでは珍しいハッキリとした悪役である。私はカリオストロの城カリオストロ伯爵、未来少年コナンレプカ、当作品のムスカを、宮崎アニメ3大悪役と勝手に読んでいるが、その中でもムスカは凄く人気があるのである。
 実は、当作品の最初の案は、まるでムスカが主役なのではないかと思う様なストーリーだった様である。将にムスカの栄光と挫折の物語で、余りにもパズーとシータの影が薄すぎた為、プロデューサーの高畑勲さんが鈴木敏夫さんと共に直訴して今の形になったという裏話がある。
 「ムスカ語録」なんていうものがあり、ネット上などでもネタ化されているが、それはムスカが主役各だった名残も残っているからなのだろう。
「流行りの服は嫌いですか?」
「これはこれは、大女様ではないか。」
「言葉を謹みたまえ、君らはラピュタ王の前にいる
 のだ。」
「素晴らしい!最高のショーだとは思わんかね?」
「見ろ!人がゴミのようだ。」
「3分間待ってやる。」
「目が、目がぁ〜!?」
 この調子だと紙面がいくらあっても足りないので
この位にしておくが、台詞が活き活き感じるのは主役の名残所以だろう。余りにもムスカが人気が出過ぎた為、映画以上にムスカは神格化されて誤解を生んでいるような気もする。

 ・ムスカには温情など微塵も無い

 まあラピュタファンに言わせれば、何を当たり前な事をと思われるであろう。私自身もそう思う。
 他の記事にもかなり掲載されている事なので敢えて箇条書きにしていくが、ムスカの設定としてはムスカの先祖がラピュタの血を濃くする為近親相姦をくり返し、その結果ムスカは視力が弱く、眩しい光には目が耐えられないのでサングラスを付けている
。また、未来少年コナンの悪役レプカは、実はムスカの子孫であるという設定である。
 ムスカの心底として抑えなくてはならないのは、ラピュタ到着後、ムスカラピュタを我が物にし、軍隊を始末してからシータに対してこう言っている。
 「当分2人きりでここに住むのだからな。」
 ムスカが何を意図しているかは、実は簡単に想像がつく。目的はラピュタ王国の復活であり、その為にシータに子供を産ませ、繁栄には十分だと思った時点でシータを始末してしまうつもりだったのだろう。「当分」という言葉がこれならしっくりくるし、近親相姦でラピュタの血を濃くしていた裏設定のあるムスカなら十分に現実味のある話だ。そもそもムスカがシータを生かしておくのは道具として利用する為で愛情など微塵もない。最終決戦の場面を御覧頂ければお解りだろう。もっとも、結果は御覧の通りだし、万が一そんな展開になろうものなら、私がブラウン管の向こう側の世界へ行ってパズーと共に断固阻止するが・・・閑話休題
 あと、最終決戦でムスカが何故3分間待ってくれたのかだが、これはもうあちこちて情報が流れているが、あの時点でムスカは弾切れだったという事である。私は実は初見で気付いていた。直にムスカが弾を込めるシーンがあったからである。しかし、通常ピストルには弾は6発入れる事が出来、5発は映像で確認出来るのだが、弾切れならあと一発は何処で撃ったのかという疑問も囁かれている。これについては真相が解らないので当記事では触れないが、将棋プロで大のラピュタファンで知られる神谷広志さんもこの疑問を投げかけておられた。もし叶うのであれば、ラピュタについて神谷プロと徹底的に討論したいと思っている。

 ・実は主題ではないシータの台詞と、意味を持た
  ない討論

 話が変わるが、ラピュタの作品批判の中に、文明批判が入っているという話がある。おそらく、ムスカとの最終決戦で、シータの言う有名な台詞の事であろう。
「人間は、土から離れては生きられないのよ!」
 おそらく主題ではないかと言われ続けきたこの台詞は、文明批判だともとれなくはない。しかし、それは矛盾しているという。ラピュタの文明も、パズーが生活している産業革命期の文化も同じ機械文明であり、それを否定したら、パズーはどうやって生活するのだという事らしい。しかし、これは宮崎監督にあっさり否定されている。物語の主題について聞かれると、
「少年が少女の為に一肌ぬぐ話です。特に主題はあ
 りません。」
と答えたという。だから、シータの台詞は、ラピュタ王家の思想がそうだったと捉えるのが妥当であろう。ラピュタ王家がどういう思想を持って、ラピュタから地上へ降りてきたのかは、ゴンドアの谷の詩とこの台詞が出てくるまでは知る由もなかったので尚更そう感じる。
 実は、私自身も、シータの台詞は主題としては弱いと感じでいた。何故なら至極当然の事だから。文明が発達し現代に至っても、土を耕したり、自然の中で人間は生き続けているし、宇宙に行ける時代が来ても、いずれは我が家恋しさに帰って来る。私に限らず誰もが無意識に実感している事であろう。文明批判というには余りにも大層な話だと思う。
 上記のシータの台詞に対してムスカが、
ラピュタは滅びぬ。何度でも甦るさ。ラピュタ
 力こそ人類の夢だからだ!」
と言い放つシーンがあるが、最近巷でよく聴くのは、この2人はどちらも正しい事を言っているのではないか?という議論である。しかし、私からすれば、これ程意味の無い議論はないと感じる。
 要はこの場面は、ラピュタの力で世界征服を試みるムスカと、何とかそれを食い止めようとするシータの対峙であり、言ってる事の是非を論じてもまるで中身がないと思うからだ。まともな思考が出来れば行動の正しいシータに皆が味方する筈である。
 最近はムスカ人気が凄く、ムスカと付き合いたいなんて仰る方もおられる様だが、ろくな目に会わないのは分かり切った話である。ムスカは典型的な札付きの悪であり、だからこそ魅力的なのだ。
 話が逸れるが、お察しの方もいらっしゃると思うが、この記事ではラピュタの謎とか、秘密とかそういう類の話は扱っていない。あくまでも登場人物の心底や物語背景的な話を重視している。そういう話をお望みの方は他に沢山記事が溢れていると思われるのでそちらにお任せとする。
 
 次回は、物語のキーマン、ドーラおばさんについて検証していきたい。

第1章 本当にラピュタは「失敗作」なのか?

f:id:sheeta1986:20191217150608j:plain今では「天空の城ラピュタ」は、ジブリ作品の中でも上位争いをする人気っぷりなのだが、実はジブリ作品の映画興行収入としては、ワースト1位という不名誉な記録が残っている。当時は宮崎監督がまだメジャーとは言えず、また時代的にアニメは評価が低い時だったので、時が良くなかったというのも影響していそうだ。
 あと、個人的には評論家の方々から正当な評価を頂けなかったというのも影響しているのではと私は考える。

 ・ラピュタは「失敗作」は本当に常識なのか?

 実際ある批評家の方は、「ラストの方になってもフラップターや乗り物が十分に起動せず、追っかけっ子してるだけの最高の困ったちゃん。」などと批判している。しかしそれは、その批評家の好みに合わなかっただけの話だと私は思っている。私はそういうものよりストーリー性やドラマ性を重視しているのでこういう批判は何とも思わないでいた。
 しかし、ある別のアニメ監督に言わせると、宮崎監督はラピュタを失敗作として嫌っているという事らしい。しかも、プロの間ではラピュタが失敗作というのは常識らしい。
 まあ本人が嫌うくらいなのだから失敗なのであろう。しかし、私は宮崎監督が、自分の作品を良く言う光景を観た事がない。あるファンが、
「自然の大切さを教える為に子供にトトロを見せま
した!」
と言ったら、監督は即座に、
「そんなもの見せずに自然の中へ連れていってあげ
て下さい!」
と仰る監督なのである。
 批判の話に戻るが、某プロの話ではラピュタの欠点をこう指摘していた。

①価値観としてまず、「炭鉱夫っぽい仕事をして肉
 団子一個おまけして貰って喜ぶ少年に両親はいな
 いのにどうやってあれ程沢山の鳩を飼えたのか?
 シータが情報部に引き取られた際に渡さされた金
 貨を捨てられなかったのに。
②映画の盛り上がる所がクライマックスでなくシー
 タ救出のシーンになっていて本来一番重要なモチ
 ベーションである父が発見したという天空の城が
 存在していた事が単なる通過点。
ラピュタに着いた兵士達が財産を持ち出すという
 至極当然の行為に対して「酷い事するなあ」とシ
 ータに聞こえる言い方をして、ラストにドーラ達
 がくすねた財宝には微笑むという矛盾。
ジュブナイル、つまり少年少女の冒険物語として
 成立させないといけないのにジュブナイルになっ
 ていない。事実上の最終決戦はパズーではなくシ
 ータが既に腹を括っているし、パズーの選択も同
 様に滅びの呪文を唱えるスキヤキハラキリバンザ
 イアタック。

 蓋を開けたらこんな内容なので、私はズッコケて
しまった。そもそも監督がラピュタを嫌っているという話なのに、某プロの方のラピュタ批判に話が摺り変わっている。この話を聞いたファンの方が、
ラピュタの駄目な所が良く分かりました。」
と仰ったらしいが、こういう方はファンとは言えないだろう。ファンというには信念が足りないと感じるからである。因みに私は全て論破出来る。

 ①だが、まず肝心な事はそういう事ではない。一般的には鳩は結構辺りを汚すし、手懐けるのも大変で余程身の回りの事が出来ないと飼えない生き物なのである。主人公のパズーが鳩を飼っているという事で、このパズーという人間の性格付けが出来るのである。鳩は平和の象徴とも言われている。
 また、パズーが貧乏であるかは実はハッキリしていない事で、現に亡くなった父親は飛行船でラピュタ探索をしているから元々は裕福な家庭だったとも想像出来るのだ。その当時に飼っていたのを引き継いているかもしれないではないか。
 あと、シータと引き換えに貰った金貨を捨てられなかった理由を根本的に理解していない。これは第5章でも取り上げるが、勿論お金の大切さを知っているからというのはあるが、もし仮に金貨を投げ捨ててシータが戻ってくるならば、パズーは躊躇わず捨てた筈である。
 ②について、確かにシータ救出のシーンはラピュタ映画の中でも激熱なシーンだが、これはラストの対決シーンをどう評価するかによる。④と関わるので一緒に論じるが、一言だけ言うとこの批評は主人公がパズーであるという既成概念に囚われ過ぎている気がする。そもそも、ラピュタが見つかって終わりになる話でない事は皆様も御承知の通りであるし、ラピュタ上陸も私は激熱と思うのだが。
 ③だが、パズーが怒りをあらわにしていたのは財宝強奪の為に爆弾等を使ってラピュタの建造物を破壊する行為に対してである。確かにラピュタに対して何の敬意も感じない行為で至極当然などととんでもない。パズーはラピュタへ行く事を夢見ていたのだから尚更そう感じるだろう。また、フィナーレで皆が笑うシーンは、全員が無事に生き残ったという安堵感があるからこそである。実はちゃっかりお宝持ち帰ってましたというあのシーンは爽快感すらある。この批評は登場人物の心底が理解出来てない事をそのまま証明している様なものである。
 ④だが、実はこの指摘は唯一当たっている指摘である。シータが腹を括っているというのは、死ぬ覚悟をしているという事で、台詞でも確認出来る。しかし、この作品はジュブナイルを敢えて崩した事で物語のレベルが飛躍的に上がっているのであり、このプロの方はそれに気が付いてない。これが致命的である。
 実は宮崎監督は、童話の「雪の女王」を非常に敬愛しておられ、自分の原点とまで仰っている。第4章でも説明するが、確かにあのシーンはシータとパズーにゲルダの魂が乗り移った感覚さえある。そういう視点で言えば、新しいジュブナイルの形を創られたという見方も出来るのだ。あと、シータだけでなくパズーだって実は腹を括っているのである。このプロの方は「おばさん達の縄は切ったよ。」というパズーの台詞の重みを理解出来ていないのだろう。
 こうしてみると、批判は枝葉の一部や形式的な事をつついている感じで、核心については理解すら出来ていないのがお分かり頂けるだろう。亡くなられた将棋プロの芹沢博文さんは、「形に明るく、定石に詳しい、ただそれだけのプロをプロと言うな。」と仰っているが、これはどの世界にも当てはまる事だろう。

 ・監督の語る「悲劇」の意味
 
 しかし、実は宮崎監督はラピュタ以降冒険物を創らなくなってしまった。それに関して監督は、
「少年物の冒険活劇は、悲劇しか生まない。」
と仰っている。この悲劇とはどういう意味なのか、私は、ラピュタが滅びの言葉で崩壊する事が悲劇の意味ではないと考えている。何故なら、ラピュタは滅びない限りシータは生涯自由になる事が出来ないからだ。時は軍国主義時代。ムスカが消えても他の国の者がシータを狙うかもしれない。そう考えればラピュタ崩壊は避けて通れない道だったのだ。どうやら監督の思惑は別にある様なので、これに関しては第4章でまた取り上げたい。
 長文になってしまったが、いずれにせよラピュタという作品は、多くの人々の心を鷲掴みにした最高の失敗作と言えるだろう。余談だが、現在監督が製作中の映画が久々の冒険物であるらしい。完成までは時間が掛かりそうとの事だが、これからが楽しみ
である。

      〜序章〜

f:id:sheeta1986:20191211195917j:plain 私が映画、「天空の城ラピュタ」を初めて観たのは16歳の時だった。当時は、宮崎駿監督が売れっ子アニメ監督になろうとしている時期だった。 
 私は既に、「風の谷のナウシカ」も観ていたが、ラピュタに受けた感動は、ナウシカ以上のものだった。何故か私は、その後将来の目標を「パズー超え」に設定してしまった。理由は分からない。
 しかしその翌年、私は某趣味で全く無名選手だったのがいきなり全国2位になってしまった。大学時代には悲願の学生タイトルも取り、新聞の「ひと」欄にも2度掲載された。勿論パズー超えなどまだまだ遠い彼方だが、少なくとも私がラピュタを観て変わったと言う事だけは自信を持って言える。
 いつしか、パズーとシータへの恩返しに、ラピュタの考察記事を書きたいと思っていた。しかし、私にそれが書けるのか?私がラピュタに関して研究した事は何処まで通用するのか?
 (尚、この記事はネタバレが入っている為、まだ天空の城ラピュタを御覧になっていない方は、本編を御覧頂いた後に当記事を読まれる事をお勧めする。)

 タイトル下の写真を御覧頂きたい。要塞から救出されたシータがパズーの胸で泣きじゃくるシーンである。実は、本編では無言だが、この場面は台詞が入る予定だったのである。
 話が逸れるが、この前に一度パズーとシータはムスカにより引き離される。家の近くで転倒し、ムスカに貰った金貨を投げつけようとするパズーの心境はいかなるものであっただろう?私は、シータに裏切られてしまったという悔しさは持っていただろうなと思っていた。(私が思うにここは重要場面なので本編でまたじっくり解説したい。)

 再び写真である。某漫画ショップで解った事なのだが、ここで省略されていた台詞は以下の通りである。
 パズー「御免ね。僕はシータの気持ちを疑って
     しまった。」
 シータ「ううん。」

 私の解釈は当たっていたのだった。これ以降、ラピュタの独自解釈にある程度自信を持つ事が出来た。
 本来は監督に言わせれば、小学4年生くらいなら理解出来るアニメ映画を目指したそうなのだが、実は天空の城ラピュタという映画の落とし穴はここにある。兎に角、他作品に比べて余計と思われる台詞を極力カットしている為、時にはとんでもない勘違いをされる事がある。ブロの方ですら解釈を間違えてる事もあると感じるぐらいである。登場人物の心底など物語の背景など、全てが観客に委ねられるのである。これが奥深さでもあるのだが。
 本当は皆様に皆様なりのラピュタ感があって良いのだが、敢えて私が研究した事をここに記し、比較的自信ありげに解説したいと思う。おそらく、未だかつて無いラピュタの解釈記事となるだろう。独りよがりな記事になるかもしれないが、一人でも多くの方が共感し、ラピュタのファンが増えてくれたらこれ以上の喜びはない。
 本記事を書くにつれ、改めてラピュタに関して様々な方々と討論させて頂いた。紙面を借りて、ここに御礼申しあげます。

 第1章 本当にラピュタは「失敗作」なのか?
 第2章 ムスカに関する考察
 第3章 ドーラに関する考察
 第4章 パズーとシータの「関係性」を考察
 第5章 パズーに関する考察
 第6章 シータに関する考察
 第7章 パズーとシータの将来を考察

 (議論の場を設ける為コメント欄を開放していますが、単なる悪口、雑言については返答致しません。また、明らかに自分の意見を述べていないコメントに関しても、返答を拒否させて頂きます。)