ラピュタ・アカデミック

従来にない形で、ラピュタの物語と登場人物の心底を考察する

第6章 シータに関する考察。(後編)

f:id:sheeta1986:20191220210149j:plain
 シータ考察だが、前章で私はシータが多面性があると述べたが、それでも純粋で心優しい少女であるというのがベースにある事はご納得して頂けるだろう。自分を助けて焼け焦げたロボットに心を痛め涙し、写真にある様に庭園のロボットを思い涙する少女である。
 一般的にはシータは男性ファンが多く、女性にはあまり好まれてないイメージがあるが、最近はこれが逆になっている気がする。むしろ女性の方がシータをきちんと理解してて、男性がシータ離れしている印象だ。もしかしたら、男性の草食化も影響しているのだろうか。因みに私はと聞かれると・・・後で答えさせて頂く。(^^;

 ・相反する思いで葛藤する少女、シータ

 まず、ドーラの海賊船に乗せて欲しいと嘆願した時のシータの台詞を思い出して頂きたい。
ラピュタの本当の姿を、この目で確かめたいんです。」
 しかし、パズーとタイガーモスの見張りに立つ時、シータはこう言っている。
「パズー、私恐くてたまらないの・・・。本当はラピュタなんてちっとも行きたくない。」
 という事は、前の台詞は嘘だったのかと考えてはいけない。これは私が考えるに、どちらも本心である。
 シータは要塞の中で、飛行石を持っていたシータを是が非でも守ろうとするロボットの姿を見ている。当然ラピュタには、そういうロボット達が沢山いる事は想定出来るのである。シータは肝心の飛行石は落としてしまい、ムスカが持っている訳だが、飛行石をムスカが持っていたとしたら、とんでもない事が起こるのである。本当は行きたくない。台詞の通り恐いし、どうして良いかも解らない。しかし、シータはラピュタの王女。私はラピュタに行かなくてはならないのではないか?という気持ちが芽生え始めているのである。
 これは空想で申し上げている訳ではない。ちゃんと台詞が物語っている。
「あんな石、早く捨ててしまえば良かった。」
マイナスなイメージばかりつきまとう台詞だが、実は、シータ自身がもう後には引けないという事を承知しているからこそ、こういう台詞が出てくるのである。だからパズーは、あの石があったからこそシータに会えたと、その事を感謝し、シータ1人じゃないんだと背中を押してあげたのである。
 実はシータが異なる思いで葛藤するシーンがもう1つある。それは最終決戦の場面。厳密には既に紹介した場面でもあるが、後で紹介する。
 パズーがシータの近くまで来た時、シータは壁の隙間から飛行石をパズーに託し、海に捨ててと訴える。シータはもう腹を決めており、飛行石を使えなくしてパズーを逃し、自身は死ぬつもりだったのだ。しかしパズーは、シータを見捨てる事など出来る訳が無い。ムスカと対峙するパズー。
「パズー、来ちゃ駄目!この人はどうせ私達を殺す気よ!」
「パズー、来ちゃ駄目!石を捨てて逃げて!」
結局、三分の時間を与えられ、シータはパズーに抱きつくのだが、私が初見でこのシーンを観てた時、
弟が、
「来ちゃ駄目とか言って、何やってんだ?」
などと言い出した。私が即座に、
「お前、馬鹿なの?」
と言い返したのは言うまでもない。
 何故ならシータはパズーに助けて貰って嬉しいという気持ちと、パズーだけは死なせたくないという気持ちが葛藤しているからである。これは非常に解りやすいと思う。そもそも、大好きな男の子から助けて貰って嬉しくない女の子など存在するだろうか?
 しかし、シータ性格ブス提唱者によれば、シータはパズーが助けに来てくれると解って、来ちゃ駄目とか言ってると主張するから呆れる。これもシータ嘘泣き説と一緒で、ラピュタ作品の世界観を崩壊させかねない。因みに私が紹介した場面とは、嘘をついてパズーを逃し、シータ1人で泣いたシーンの事だ。それ以外にも、見張りのシーンで「私の為にパズーを海賊にしたくない。」と言っている。
 まあ厳しく言わせて頂ければ、そういう考え方しか出来ない方はラピュタの面白さなど生涯解らないままだろう。
 話が横道にそれてしまった。シータには人間味を感じないと言う方がいらっしゃるという話は第6章の前編で挙げたが、私はむしろこういうシータの特徴は非常に人間臭さを感じるのである。むしろパズーよりもシータの方が心の葛藤は多いだろう。

 ・シータの「ドーラ化」を検証

 これは相変わらず話題になっている。かなり印象的な台詞だからだ。元はドーラの台詞、
「泣かせるじゃないか、男を守る為のつれない仕草。あたしの若い頃にそっくりだよ。」
それに対して息子達が、
「へっ!?ママの様になるの?あの子。」
と言っている。正直随分話がとぶなあと思ったが、後に、ドーラの部屋にドーラの若い頃の写真があり、確かにシータと似てなくもない。しかし、個人的には雰囲気が大部違うと思うが。
 ラピュタの話の中には、結構将来的な事を印象させる台詞が多い様に思う。だから、第7章では将来的な事を許す限り考察してみる所存だ。
 これに関しては、私の意見としてしか出せないが、シータがドーラみたいな風貌になるかと言うと、私の答えはノーである。実はちょっとだけ根拠がある。それは、シータの幼少期を回想するシーンがあるが、その時シータのお婆ちゃんが出てくる。しかし、顔はドーラに全く似てない。まあシータもこういう歳の取り方するかなと考えている。実は、初期設定ではシータがドーラの娘と設定されていた事もあったそうだ。もしその設定なら話は大きく変わるのだが。
 では、シータがドーラみたいに強い女性になるかと言えば、それは大アリであろう。パズーの炭鉱の女性達も強く描かれているし、親方のおかみさんとて逞しいが、実は20歳である。
 実はシータがドーラみたいに強くなる事は作品の中でも暗示されているように思う。シータはパズーに触れ合う事で成長し逞しくなっていき、ラピュタ庭園でラピュタ王女の自覚を持ち、ムスカラピュタの分家と解った後、ムスカに啖呵まできっている。ラピュタはパズーだけでなく、シータの成長物語でもあるのだ。しかし、だからといってガッカリする必要は無いと思う。女性が強くなっていくのは自然の摂理である。ましてや、女性から母親に変わる時などは守られる立場から守る立場に変わる訳だから当然と言って良いだろう。

 長い事シータについて考察したが、冒頭で述べた事をそろそろ・・・
「どうせ、大好きだろ?」
そう思われた貴方、なかなか鋭い。もとい、朝からそれ大正解!!(笑)
 以下の文章はそんなシータ大好き人間の戯言と思って読んで頂ければ幸いである。
 よく、シータファンの中でパズーの事をボロクソに批判している方がいる。この類の方は以前より増えた印象がある。パズーと一緒にいるからお下げを失ったとか言う人までいる。しかし、私はそういう人達を同じシータファンとして認めたくはない。むしろ、シータはパズーと幸せになって欲しいと思うのが本物のシータファンであり、でないと筋が通らないとさえ思っている。何故か?我々が見ているシータはパズーを好きになり、その事で魅力的な表情を見せるシータを好きになっているからである。シータがパズーと一緒にいる表情と、ムスカと一緒にいる表情を比較して頂ければ、御理解頂けると思う。

 次章では、遂に未開拓の地に入っていく。今までに無い考察記事としたい。