ラピュタ・アカデミック

従来にない形で、ラピュタの物語と登場人物の心底を考察する

第5章 パズーに関する考察。(後編)

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 前回にひき続き、パズーの考察である。
 余談だが、改めてパズーという人間を見てみると、中身がイケメンであるのは議論の余地がない所だが、顔もかなりイケメンだと私は感じる。一般的にはパズーはフツメンと言われているが、私は特に
タイトル下の写真のパズーは無茶苦茶格好いいと感じる。世間一般で人気が出るタレントを見てみると、二枚目要素と三枚目要素のどちらも含んでらっしゃる方が人気が高いように思う。だから、もしジブリのヒーローが全員リアルな人間になったとしたら、1番人気が出るのはパズーなのではないかとすら考えている。

 ・パズーがラピュタに行く動機

 ドーラに仲間入りし、シータを助け出したパズーはそのままドーラのもとで働きながらラピュタを目指していく。
 お気付きの方も多いと思うが、パズーがラピュタを目指す動機は、実は最初とは目的が変わりつつある。詐欺士扱いされた父の無念を晴らすだけではなく、真の意味でシータを自由にしてあげる為という事が加わっているのだ。タイトル下の写真のパズーの表情は、将にその決意の表れである。
 ラピュタの作品に対する批判でよくあるのが、主人公がラピュタに行く動機が薄いのではないか?という事である。要は目的がハッキリしていないという事だ。パズーの台詞で見てみると、
「まだどうしたら良いか解らないけど、本当にラピュタが恐ろしい島なら、ムスカみたいな連中に渡したらいけないんだ・・・それに、今逃げ出したら、ずーっと追われる事になっちゃうもの。」
 確かにまだ手段も解らない状態なのは間違いない。しかし、これをもってして動機が薄いと批判するのは私は強引だと感じでいる。何故なら主人公は13歳の少年であり、大人が行ってるのとは訳が違うのだ。13歳の少年が、ラピュタ着いてムスカを殺して・・なんて話になっては逆にリアリティが無いではないか。
 ここで前編で申し上げた、パズーがリアリストである一面が大きく関わってくるのである。目的が定かでなくても、やらなければならない事は分かっている。だから兎に角その道を進んで行くというのはパズーらしい生き方であり、物語を破綻させないエッセンスなのだ。実際、この時点でパズーの行動に異を唱える方は極めて稀である。ラピュタに行かず、そのままシータと一緒にいる選択肢もあったなんて議論もあるが、パズーは選ぶ筈がない。自分の無力さを軍に捉えられた事で十分に解っているからだ。(それ以前に物語も進まないが。)パズーの台詞でも確認出来るだろう。

 ・パズーはシータに「告白」している!

 ちょっと第4章と関わってくる話で申し訳ないのだが、こちらも意外に重要なので取り上げる。よく、パズーとシータって、お互いの気持ちを伝えるシーンが無いから、好き同士と言われても違和感があるという意見を結構聞く。しかし、実はあるのである。広義の意味でこれは告白に当たるだろう。
「全部片付いたら、きっとゴンドアへ送ってあげる。見たいんだ。シータの生まれた古い家やヤクたちを・・・。」
 有名なパズーの台詞だが、ちょっと何言ってるか全然分かんないんだけど?と某お笑い芸人の様に仰る方の為に解説しておく。
 ロビンソン等で有名スピッツの歌に、「優しくなりたいな」という歌がある。ファンならご存知のラブソングだが、出だしの歌詞
 
 君の事を知りたい どんな小さな事も

こちらと同じ意味だと解釈して頂ければ良い。ご興味ある方はスピッツ、優しくなりたいな、で検索して頂きたい。強引では?と突っ込まれそうだが、無意識に同じ事を思ってらっしゃる方はかなりいる筈だ。
 因みに、パズーの意図はシータにちゃんと伝わっているから、「ああ、パズー・・・」となっているのである。そしてこの会話は海賊のルイにも盗聴されており、ルイがやってられねえよ!って感じの表情をしているが、監督の描写は非常に一筋縄ではないと感じるのがこのシーンである。パズーとシータが非常に良い雰囲気なのを、敢えて第三者の表情を描く事で表現している訳だから。
 すっかりパズーはシータの心の支えになっている感じだが、実はこの事は後々の展開で影響していく重要な要素である。

 ・ドーラの台詞の意味と、少年冒険活劇の限界

 ラピュタに到着し、庭園を散策していたら再び軍が動き出し、ドーラ一味が捕らわれているのを見たパズー達は、救出を試みるが再びシータがムスカに捕えられ、1人でドーラ救出に向かい助け出すのだが、その際にドーラからバズーカと弾をもらい、パズーはシータ救出に向かう。その際のドーラの台詞に注文したい。
「急に男になったねえ・・」
 私はこの台詞を考察し、意見を出していたが、ある方からドーラの口ぶりからして大した意味はないと言われたのだ。しかし、それは絶対にあり得ない事である。何故ならドーラは捕らわれの身で、余計な事を喋ると目をつけられるし、(あの時点ではまだ近くに兵士がいた。)まだ近くにいるパズーを巻き込む可能性があるからだ。だから監督が敢えてドーラに言わせていると考えるのが自然である。
 そしてその答えはただ1つ。パズーが初めてだった1人で誰かを助け出した事を暗示しているのである。思えば要塞からのシータ救出も、ラピュタの到着もドーラの助け無しでは出来なかった事である。勿論どちらに関してもパズーは大活躍してはいるが。
 実はよく考えると、この後の展開でも、パズーは普通の少年である事が尾を引いて、思うままに活躍出来ない状態なのである。最終決戦の話を御覧頂ければ解りやすいだろう。折角ドーラから貰ったバズーカはその前に弾切れして使えない。結局滅びの言葉を唱える訳だがそれにはシータが絡まなければならないという状態なのだ。しかし、この話の前に申し上げた、パズーがシータの心の支えになっている事が、そういう諸問題を目立たせず視聴者をすんなり物語に没頭させる要因になっているのである。滅びの言葉を言う決断をするのはパズーであり、パズーのイケメンな所だけがクローズアップされるこのシーンは、将にあらゆる弱点を打ち消す程の威力がある。パズーはラピュタという憧れをシータの為に壊す決断をするのだから尚更そう感じるだろう。

 パズーの考察だけでもこれだけの容量になるのだから、シータ考察では更にとんでもない量になりそうだ。実は私からしたら嬉しい悲鳴なのだが。
 次章では、もう1人の主人公シータを、前半と後半に分けて考察したい。(もしかしたら、中編もあるかもしれないが。)