ラピュタ・アカデミック

従来にない形で、ラピュタの物語と登場人物の心底を考察する

第2章 ムスカに関する考察

f:id:sheeta1986:20191212182811j:plain いよいよ本章より、ラピュタの主となる登場人物について考察していく。メインの登場人物と言えば、主人公のパズー、ヒロインのシータ、(敢えて形式上の書き方をしているが、これは第4章では別の持論を展開する。)重要人物のドーラ、悪役のムスカは外せない所。ここでは大人気の悪役ムスカについて考察する。

 ・実は、当初は主役であった!

 最初に言ってしまうが、ムスカの心底についてはあまり考察する所がない。非常に分かり易いキャラクターだからだ。軍の大佐を任され、ラピュタの脅威から世界を守るという口実でシータを拉致し、強引に協力させようとするが、実はラピュタの分家の末裔で世界征服を企んでいたという宮崎アニメでは珍しいハッキリとした悪役である。私はカリオストロの城カリオストロ伯爵、未来少年コナンレプカ、当作品のムスカを、宮崎アニメ3大悪役と勝手に読んでいるが、その中でもムスカは凄く人気があるのである。
 実は、当作品の最初の案は、まるでムスカが主役なのではないかと思う様なストーリーだった様である。将にムスカの栄光と挫折の物語で、余りにもパズーとシータの影が薄すぎた為、プロデューサーの高畑勲さんが鈴木敏夫さんと共に直訴して今の形になったという裏話がある。
 「ムスカ語録」なんていうものがあり、ネット上などでもネタ化されているが、それはムスカが主役各だった名残も残っているからなのだろう。
「流行りの服は嫌いですか?」
「これはこれは、大女様ではないか。」
「言葉を謹みたまえ、君らはラピュタ王の前にいる
 のだ。」
「素晴らしい!最高のショーだとは思わんかね?」
「見ろ!人がゴミのようだ。」
「3分間待ってやる。」
「目が、目がぁ〜!?」
 この調子だと紙面がいくらあっても足りないので
この位にしておくが、台詞が活き活き感じるのは主役の名残所以だろう。余りにもムスカが人気が出過ぎた為、映画以上にムスカは神格化されて誤解を生んでいるような気もする。

 ・ムスカには温情など微塵も無い

 まあラピュタファンに言わせれば、何を当たり前な事をと思われるであろう。私自身もそう思う。
 他の記事にもかなり掲載されている事なので敢えて箇条書きにしていくが、ムスカの設定としてはムスカの先祖がラピュタの血を濃くする為近親相姦をくり返し、その結果ムスカは視力が弱く、眩しい光には目が耐えられないのでサングラスを付けている
。また、未来少年コナンの悪役レプカは、実はムスカの子孫であるという設定である。
 ムスカの心底として抑えなくてはならないのは、ラピュタ到着後、ムスカラピュタを我が物にし、軍隊を始末してからシータに対してこう言っている。
 「当分2人きりでここに住むのだからな。」
 ムスカが何を意図しているかは、実は簡単に想像がつく。目的はラピュタ王国の復活であり、その為にシータに子供を産ませ、繁栄には十分だと思った時点でシータを始末してしまうつもりだったのだろう。「当分」という言葉がこれならしっくりくるし、近親相姦でラピュタの血を濃くしていた裏設定のあるムスカなら十分に現実味のある話だ。そもそもムスカがシータを生かしておくのは道具として利用する為で愛情など微塵もない。最終決戦の場面を御覧頂ければお解りだろう。もっとも、結果は御覧の通りだし、万が一そんな展開になろうものなら、私がブラウン管の向こう側の世界へ行ってパズーと共に断固阻止するが・・・閑話休題
 あと、最終決戦でムスカが何故3分間待ってくれたのかだが、これはもうあちこちて情報が流れているが、あの時点でムスカは弾切れだったという事である。私は実は初見で気付いていた。直にムスカが弾を込めるシーンがあったからである。しかし、通常ピストルには弾は6発入れる事が出来、5発は映像で確認出来るのだが、弾切れならあと一発は何処で撃ったのかという疑問も囁かれている。これについては真相が解らないので当記事では触れないが、将棋プロで大のラピュタファンで知られる神谷広志さんもこの疑問を投げかけておられた。もし叶うのであれば、ラピュタについて神谷プロと徹底的に討論したいと思っている。

 ・実は主題ではないシータの台詞と、意味を持た
  ない討論

 話が変わるが、ラピュタの作品批判の中に、文明批判が入っているという話がある。おそらく、ムスカとの最終決戦で、シータの言う有名な台詞の事であろう。
「人間は、土から離れては生きられないのよ!」
 おそらく主題ではないかと言われ続けきたこの台詞は、文明批判だともとれなくはない。しかし、それは矛盾しているという。ラピュタの文明も、パズーが生活している産業革命期の文化も同じ機械文明であり、それを否定したら、パズーはどうやって生活するのだという事らしい。しかし、これは宮崎監督にあっさり否定されている。物語の主題について聞かれると、
「少年が少女の為に一肌ぬぐ話です。特に主題はあ
 りません。」
と答えたという。だから、シータの台詞は、ラピュタ王家の思想がそうだったと捉えるのが妥当であろう。ラピュタ王家がどういう思想を持って、ラピュタから地上へ降りてきたのかは、ゴンドアの谷の詩とこの台詞が出てくるまでは知る由もなかったので尚更そう感じる。
 実は、私自身も、シータの台詞は主題としては弱いと感じでいた。何故なら至極当然の事だから。文明が発達し現代に至っても、土を耕したり、自然の中で人間は生き続けているし、宇宙に行ける時代が来ても、いずれは我が家恋しさに帰って来る。私に限らず誰もが無意識に実感している事であろう。文明批判というには余りにも大層な話だと思う。
 上記のシータの台詞に対してムスカが、
ラピュタは滅びぬ。何度でも甦るさ。ラピュタ
 力こそ人類の夢だからだ!」
と言い放つシーンがあるが、最近巷でよく聴くのは、この2人はどちらも正しい事を言っているのではないか?という議論である。しかし、私からすれば、これ程意味の無い議論はないと感じる。
 要はこの場面は、ラピュタの力で世界征服を試みるムスカと、何とかそれを食い止めようとするシータの対峙であり、言ってる事の是非を論じてもまるで中身がないと思うからだ。まともな思考が出来れば行動の正しいシータに皆が味方する筈である。
 最近はムスカ人気が凄く、ムスカと付き合いたいなんて仰る方もおられる様だが、ろくな目に会わないのは分かり切った話である。ムスカは典型的な札付きの悪であり、だからこそ魅力的なのだ。
 話が逸れるが、お察しの方もいらっしゃると思うが、この記事ではラピュタの謎とか、秘密とかそういう類の話は扱っていない。あくまでも登場人物の心底や物語背景的な話を重視している。そういう話をお望みの方は他に沢山記事が溢れていると思われるのでそちらにお任せとする。
 
 次回は、物語のキーマン、ドーラおばさんについて検証していきたい。