第1章 本当にラピュタは「失敗作」なのか?
今では「天空の城ラピュタ」は、ジブリ作品の中でも上位争いをする人気っぷりなのだが、実はジブリ作品の映画興行収入としては、ワースト1位という不名誉な記録が残っている。当時は宮崎監督がまだメジャーとは言えず、また時代的にアニメは評価が低い時だったので、時が良くなかったというのも影響していそうだ。
あと、個人的には評論家の方々から正当な評価を頂けなかったというのも影響しているのではと私は考える。
・ラピュタは「失敗作」は本当に常識なのか?
実際ある批評家の方は、「ラストの方になってもフラップターや乗り物が十分に起動せず、追っかけっ子してるだけの最高の困ったちゃん。」などと批判している。しかしそれは、その批評家の好みに合わなかっただけの話だと私は思っている。私はそういうものよりストーリー性やドラマ性を重視しているのでこういう批判は何とも思わないでいた。
しかし、ある別のアニメ監督に言わせると、宮崎監督はラピュタを失敗作として嫌っているという事らしい。しかも、プロの間ではラピュタが失敗作というのは常識らしい。
まあ本人が嫌うくらいなのだから失敗なのであろう。しかし、私は宮崎監督が、自分の作品を良く言う光景を観た事がない。あるファンが、
「自然の大切さを教える為に子供にトトロを見せま
した!」
と言ったら、監督は即座に、
「そんなもの見せずに自然の中へ連れていってあげ
て下さい!」
と仰る監督なのである。
批判の話に戻るが、某プロの話ではラピュタの欠点をこう指摘していた。
①価値観としてまず、「炭鉱夫っぽい仕事をして肉
団子一個おまけして貰って喜ぶ少年に両親はいな
いのにどうやってあれ程沢山の鳩を飼えたのか?
シータが情報部に引き取られた際に渡さされた金
貨を捨てられなかったのに。
②映画の盛り上がる所がクライマックスでなくシー
タ救出のシーンになっていて本来一番重要なモチ
ベーションである父が発見したという天空の城が
存在していた事が単なる通過点。
③ラピュタに着いた兵士達が財産を持ち出すという
至極当然の行為に対して「酷い事するなあ」とシ
ータに聞こえる言い方をして、ラストにドーラ達
がくすねた財宝には微笑むという矛盾。
④ジュブナイル、つまり少年少女の冒険物語として
成立させないといけないのにジュブナイルになっ
ていない。事実上の最終決戦はパズーではなくシ
ータが既に腹を括っているし、パズーの選択も同
様に滅びの呪文を唱えるスキヤキハラキリバンザ
イアタック。
蓋を開けたらこんな内容なので、私はズッコケて
しまった。そもそも監督がラピュタを嫌っているという話なのに、某プロの方のラピュタ批判に話が摺り変わっている。この話を聞いたファンの方が、
「ラピュタの駄目な所が良く分かりました。」
と仰ったらしいが、こういう方はファンとは言えないだろう。ファンというには信念が足りないと感じるからである。因みに私は全て論破出来る。
①だが、まず肝心な事はそういう事ではない。一般的には鳩は結構辺りを汚すし、手懐けるのも大変で余程身の回りの事が出来ないと飼えない生き物なのである。主人公のパズーが鳩を飼っているという事で、このパズーという人間の性格付けが出来るのである。鳩は平和の象徴とも言われている。
また、パズーが貧乏であるかは実はハッキリしていない事で、現に亡くなった父親は飛行船でラピュタ探索をしているから元々は裕福な家庭だったとも想像出来るのだ。その当時に飼っていたのを引き継いているかもしれないではないか。
あと、シータと引き換えに貰った金貨を捨てられなかった理由を根本的に理解していない。これは第5章でも取り上げるが、勿論お金の大切さを知っているからというのはあるが、もし仮に金貨を投げ捨ててシータが戻ってくるならば、パズーは躊躇わず捨てた筈である。
②について、確かにシータ救出のシーンはラピュタ映画の中でも激熱なシーンだが、これはラストの対決シーンをどう評価するかによる。④と関わるので一緒に論じるが、一言だけ言うとこの批評は主人公がパズーであるという既成概念に囚われ過ぎている気がする。そもそも、ラピュタが見つかって終わりになる話でない事は皆様も御承知の通りであるし、ラピュタ上陸も私は激熱と思うのだが。
③だが、パズーが怒りをあらわにしていたのは財宝強奪の為に爆弾等を使ってラピュタの建造物を破壊する行為に対してである。確かにラピュタに対して何の敬意も感じない行為で至極当然などととんでもない。パズーはラピュタへ行く事を夢見ていたのだから尚更そう感じるだろう。また、フィナーレで皆が笑うシーンは、全員が無事に生き残ったという安堵感があるからこそである。実はちゃっかりお宝持ち帰ってましたというあのシーンは爽快感すらある。この批評は登場人物の心底が理解出来てない事をそのまま証明している様なものである。
④だが、実はこの指摘は唯一当たっている指摘である。シータが腹を括っているというのは、死ぬ覚悟をしているという事で、台詞でも確認出来る。しかし、この作品はジュブナイルを敢えて崩した事で物語のレベルが飛躍的に上がっているのであり、このプロの方はそれに気が付いてない。これが致命的である。
実は宮崎監督は、童話の「雪の女王」を非常に敬愛しておられ、自分の原点とまで仰っている。第4章でも説明するが、確かにあのシーンはシータとパズーにゲルダの魂が乗り移った感覚さえある。そういう視点で言えば、新しいジュブナイルの形を創られたという見方も出来るのだ。あと、シータだけでなくパズーだって実は腹を括っているのである。このプロの方は「おばさん達の縄は切ったよ。」というパズーの台詞の重みを理解出来ていないのだろう。
こうしてみると、批判は枝葉の一部や形式的な事をつついている感じで、核心については理解すら出来ていないのがお分かり頂けるだろう。亡くなられた将棋プロの芹沢博文さんは、「形に明るく、定石に詳しい、ただそれだけのプロをプロと言うな。」と仰っているが、これはどの世界にも当てはまる事だろう。
・監督の語る「悲劇」の意味
しかし、実は宮崎監督はラピュタ以降冒険物を創らなくなってしまった。それに関して監督は、
「少年物の冒険活劇は、悲劇しか生まない。」
と仰っている。この悲劇とはどういう意味なのか、私は、ラピュタが滅びの言葉で崩壊する事が悲劇の意味ではないと考えている。何故なら、ラピュタは滅びない限りシータは生涯自由になる事が出来ないからだ。時は軍国主義時代。ムスカが消えても他の国の者がシータを狙うかもしれない。そう考えればラピュタ崩壊は避けて通れない道だったのだ。どうやら監督の思惑は別にある様なので、これに関しては第4章でまた取り上げたい。
長文になってしまったが、いずれにせよラピュタという作品は、多くの人々の心を鷲掴みにした最高の失敗作と言えるだろう。余談だが、現在監督が製作中の映画が久々の冒険物であるらしい。完成までは時間が掛かりそうとの事だが、これからが楽しみ
である。