ラピュタ・アカデミック

従来にない形で、ラピュタの物語と登場人物の心底を考察する

第7章 パズーとシータの将来を考察(後編)

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 前編で2002年にラピュタがブルーレイとして発売されて、新たな事が起こったと書いたが、それは有名なエンディング曲、「君をのせて」のアンサーソングとして、「君をつれて」が発売された事である。歌われたのは元米米CLUB石井竜也さんで、実は大のラピュタファンであるという。この曲はあの映画から16年後のパズーの視点で歌詞が描かれており、作詞は石井竜也さんであるが、宮崎監督の公認を得ている為、ラピュタと無関係の世界の話ではないと言えるだろう。
 この曲の印象は人によって変わるだろうが、私自身は宮崎監督や石井さん他関係者からのラピュタファンにとって最高のプレゼントだと考えている。何しろ知る由も無かった大人になったパズーの一面を味わう事が出来るのだ。

 ・パズーの16年後、「君をつれて」

 まず、この曲を存じあげない方々の為、歌詞を紹介していくとする。

 あの頃僕は   君を探して
 旅を始めた   ばかりの少年
 夢は未だに   叶わないけど
 隣には君が   微笑んでいる
 勇気を出して  今言える事
 胸の中に光る  夢ひとつ
 もう一度君と  旅に出よう
 もう一度僕は  探しに行く

 季節は巡る   二人を変えて
 過ぎてゆく日々 揺らめく思い出
 季節は巡る   心を染めて
 だけどきっと掴もう君と二人で
 明日の事は   分からないから
 今日も歩いてゆく遥かな道
 もう一度君と  旅に出よう
 もう一度僕は  探しに行く

 もう一度夢を  追いかけよう
 もう二度と僕は 迷わないだろう
 季節は巡る   二人を変えて
 あの頃の夢   揺らめく思い出
 季節は巡る   心を染めて
 だけどきっと掴もう君と二人で

 「君をのせて」の様に韻を踏んでいる感じが印象的な歌詞だが、この曲を解釈するには2つのポイントがある。「君」が誰を指すのか?そしてパズーの新たな夢とは何か?この2点である。
 私の解釈は、「君」が誰かという答えは、言う間でもなくシータである。もう一度旅にと歌詞にもあるので自然な解釈だろう。ある議論で、「君」はシータでなくパズーの持っているナイフやランプかもしれないなんて意見もあったが、だとしたら凄い擬人法だし、後の歌詞で二人と言ってるから違うのは明らかだ。マッジだったら凄くピンと来ないアンサーソングだし、ましてやラピュタでは無い。ラピュタが微笑むなんてすざまじい擬人法であり才能ナシと何処かの番組で言われそうだ。そもそも、歌詞は「君」に対して思いが入っているのが解る事からもシータを指してるのは間違いなさそうだ。
 そしてパズーの夢だが、これはもうパズーの気持ちになって考察するしかないが、旅に出ると明確に書かれている事からも、おそらく自分の飛行機で、もう一度ラピュタへ行こうと考えていると推測する。本来パズーが映画冒頭で目指していたのは、自分のオーニソプターを完成させてラピュタを見つける事だった。また、ラピュタは崩壊はしたが、崩壊したのは1番シータを恐れさせた化学兵器とか戦闘施設の類であり、庭園やロボットは健在なのだ。因みに、ラピュタはエンディングで大気圏の手前辺りまで浮いているが、飛行石が酸素を作っている為、植物もロボットも動物も生きているとの事。シータにとってみればラピュタは恐ろしい存在だったが、シータにとって忌まわしい物が消えたラピュタは純粋に故郷とも取れなくはない。
 歌詞を見ると、離れて暮らしていたパズーとシータは一緒にいる様だ。しかし、ここで思考を止めずもう少し根こそぎ拾っていきたい。
 2番の歌詞は、これまでのパズーが送って来た日々を回想する印象の歌詞が見られる。思っていたよりも苦悩があった形跡も見られる。二人を変えてという歌詞は、16年が経過してるので姿も年齢も変化するのは当然だが、もしかしたら、パズーは将来の為に暫く冒険の事を忘れ、努力する日々を送ったのかもしれない。ただ、私はシータの内面はそれ程変わっていないのではと感じる。前記の様に日々を生きてきたパズーを陰で支えてたのではなかろうかとさえ思う。ただ、パズー自身が変わった様に感じた為に余計に2人が変わった様に見えるのかもしれない。そして、歌詞はこう続く。
「明日の事は分からないから、今日も歩いて行く遥かな道。」
 実は私が唸ったのはこの歌詞である。これはガチのラピュタファンでないと書けない歌詞である。これは映画のパズーの生き方そのものであり、再三申し上げた、パズーがリアリストである事をしっかり理解している証明なのだ。実はこの歌に関して、パズーの妄想を歌詞にしてるのではないかという声もあったが、この歌詞がそうでない事を証明してくれている。誤解してらっしゃる方も多いが、パズーは冒険ばかり考えている様で実は地に足着けた生き方をしているのだ。
 そして、更に歌詞は続く。
「もう二度と僕は迷わないだろう。」
やはりパズーには苦悩があった様だが、同時にこの歌詞は、パズーの人生に転機が訪れた事を暗示している感がある。歌詞にあるその転機とは何か。それは、隣で君が微笑んでいる以外にないではないか。つまり、1番のあの場面は、パズーとシータの結婚式の真っ只中、もしくは結婚直後の2人の様子と捉える事が出来るのだ。その考えが単なる戯言でないかの様に歌詞はこう締めくくる。
「だけどきっと掴もう。君と二人で。」

 以上だが、これを以てパズーとシータは結婚し、再度ラピュタへ行く事を目指しながら日々を過ごしたと当記事では結論を出しておく。監督が御覧になったら、「違ぇよ!」と怒られるかもしれないが。
この問題に関しては色々意見が別れ、また、異論も当然あるだろう。是非御意見を伺いたく思う。しかし、異論を唱えられる場合、その方なりにこの歌をちゃんと解釈した上で、御意見頂ければ幸いである。

        〜あとがき〜

 ラピュタについて色々論じてきたが、私の尊敬する昭和の大棋士の口調をかなり意識して書いた為、尊大な印象を与えてしまった事はこの場でお詫びしたく思う。
 ラピュタは今年再放送されたが、実は自分の中でモヤモヤした事があった為、リアルタイムでは見ず、解決してからしっかり録画しておいたラピュタをじっくり堪能した。ラピュタを観る時は、心をまっさらにして観るのが一番良い見方だと思う。
 そう言えば、今年初めて三十路になってラピュタを観てパズーと自身を比べて絶望した方がいらっしゃた様で、文章を読ませて頂いた。私の感想は、まず何故三十路で出会えた事を喜ばないのかと感じた。出会えずじまいで終わる人だっているのである。あと、年齢を理由に否定的な思考をされる方は、ラピュタを観ても楽しくないのではと思う。パズーががむしゃらに進んだ様に、我々は何歳であろうが、命ある限りはそれを全うしなくてはならないのだ。
 私は凡人である。ただ、ラピュタを極めたいと思っているのでこういうペンネームを名乗らせて頂いている。私はラピュタに関してまだ解ってない事がまだまだあると感じてるので、もしかしたらこの記事もまた更新されるかもしれない。ただ、今の時点でこの記事を出せた事は多いに感謝している。皆様には皆様のラピュタ感があると思うので、こちらは参考程度に御覧頂ければ有難い。
 最後に、私の座右の銘を記してひとまず結びとしたい。

 「聖書」と書いて、「ラピュタ」と読む!! 

第7章 パズーとシータの将来を考察(前編)

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 いよいよ未知の領域に入る。実は考察記事としては未だに多く見られる内容だが、結論を出した記事は未だ無い。ただ、これはもう私が思っている事を書くしかないというのだけは前もって御理解頂きたい。こう言っておかないと、大きなものと闘わざるを得なくなってしまう可能性があるからである。(^^; 折角手間暇掛けて作った記事を抹消されたらひとたまりもない。但し、それなりの自信はあるので、今まで通りの書き方で話を進めていく。

 ・パズーとシータのその後、公式

 パズーとシータが結婚したか否かは以前から議論されてたのは申し上げた通りだが、最初、この題を見た私の感想は、
「は?してるに決まってるだろう?」
と言うのが正直な感想だった。しかし、数年前統計を取ったら結婚も交際もしてないという意見が80%を越えたのだという。正直驚いた。私は初見でパズーとシータのそういう雰囲気を感じ取っていたからである。ただこの統計を取った時は、まだラピュタに関する情報が少なく、パズーとシータの関係についてもあやふやだったので、こういう結果になっている気がする。今は私が再三申し上げた読みをする方も増えているので、今統計を取ったら半々くらいにはなるかもしれない。実際、絶対くっついて欲しいアニメのカップルランキングがあったが、ジブリ枠でラピュタカップルはトップだった。
 これはあちこちの記事で見られるので箇条書きするが、小説では後日談があり、パズーとシータは半年間暮らした後シータをゴンドアの谷へ送っている。おそらくシータの旅費を稼ぐ為に働いた期間なのだろう。そしてシータが日常を取り戻した頃、パズーから手紙が届き、軍隊はラピュタの件をもみ消そうとしてる事、ドーラ一家は相変わらず活動してる事、そして、パズーの造るオーニソプターという小型飛行機が完成しそうで、完成したらシータに会いに行くという事が書かれていた。また、あまり紹介されてないが、別れ際パズーはドーラに、私の旦那みたいに立派な男になるんだよ!と言われタジタジだったらしい。そして、いつかその事をパズーに言おうと思っているとシータの心情が記されている。これはかなり良い雰囲気のように感じる。
 また、1枚の有名な絵があり、ご存知パズーがオーニソプターに乗って実際シータに会いに行っている絵なのだが、実はこの絵は一度ボツになっている。これは宮崎監督が、13歳くらいの少年が飛行機を造り飛んでいく事にリアリティが無いと判断し、ボツにしたという事らしい。しかし、だからといってこの設定が否定された訳ではない。13歳では無理でも、2・3年後には実現する事だろうし、現在はこの絵はジブリ美術館でも展示されている事から、2人に起き得た未来なのだ。因みに昔のインタビューで、宮崎監督は、少年はラピュタから目的を娘の家に変え、娘に会いに行く。そんな映画を創りたいと語っている。

 ・監督叩きか?謎記事の陰謀

 しかし最近、ネットで不穏な記事が世間を騒がせている。宮崎監督が、パズーとシータは結婚しないと言ったなどという記事が流出しているのだ。これは確か去年の今頃に初めて見た気がする。最初に出たのが、 宮崎駿「パズーとシータは結婚しません。2人は互いに冒険した友達で恋人ではないからです。」であった。しかし、調べてもソースは無い。それはそうだろう。実はこの記事は、私が第4章で述べた宮崎監督のコメントを弄って、さも2人が結婚する事が無いと印象付ける様に言い換えただけなのだ。それを理解した時、こんな事する輩がいるんだと絶句してしまった。因みにこれと似た記事がもう一つある。書き出しが全く同じなのだが、その後の文言が余りにも「変だ!」と気付く記事であり、ベテランの愛好家からソース無しのガセネタだと見破られていた様だった。
 こういう輩の目的ははっきりしないが、私が推測するに監督叩きが目的ではないかと思われる。しかもパズーとシータのカップルが人気と知っててやっている節がある。要は監督に責任を負わせようという書き方なのだ。勿論愚行なのは言う間でもない。
 こういう記事に惑わされない様に申し上げておくが、そもそも監督は後日談みたいな事は基本嫌うのである。いつだったか監督の言葉で、
「今の時代はドラマとか物語が必要でない時代になってしまっている。物語を自分で吟味しようとせず、説明ばかりを求めてくる。」
と批判されてらっしゃった。あと、現在監督は映画の作成中で忙しく、ラピュタの後日談のみを語る暇は無い筈だ。また、語る事は絶対無いだろう。何故なら亡くなられた高畑勲さんを冒涜する事になるからだ。ラピュタは実は高畑さんの影響が大きい。第2章で高畑さんが宮崎監督に直訴した話もあるし、またこういう映画にはエンディングが必要と言って、ご存知の「君をのせて」が出来たのは高畑さんのお陰なのだ。因みに監督によると、何とこの曲を作詞したのは宮崎さんでなく高畑さんだと言う。だから、監督がもしこんな記事の内容を喋ろうものなら、ジブリの上役等から猛激怒される筈である。
 まあしかし、こんな記事が出るのは、逆にパズーとシータの関係が認知されている証拠という気もするのだが。

 ここまでなら今までの記事と内容は同じである。しかし、2002年にラピュタのブルーレイが発売され、その時新たに起こった事が、私の筆を加速させてくれる事となった。容量上の問題でこちらも前半と後半に分ける事とする。後編は12月24日の発表としたい。

第6章 シータに関する考察。(後編)

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 シータ考察だが、前章で私はシータが多面性があると述べたが、それでも純粋で心優しい少女であるというのがベースにある事はご納得して頂けるだろう。自分を助けて焼け焦げたロボットに心を痛め涙し、写真にある様に庭園のロボットを思い涙する少女である。
 一般的にはシータは男性ファンが多く、女性にはあまり好まれてないイメージがあるが、最近はこれが逆になっている気がする。むしろ女性の方がシータをきちんと理解してて、男性がシータ離れしている印象だ。もしかしたら、男性の草食化も影響しているのだろうか。因みに私はと聞かれると・・・後で答えさせて頂く。(^^;

 ・相反する思いで葛藤する少女、シータ

 まず、ドーラの海賊船に乗せて欲しいと嘆願した時のシータの台詞を思い出して頂きたい。
ラピュタの本当の姿を、この目で確かめたいんです。」
 しかし、パズーとタイガーモスの見張りに立つ時、シータはこう言っている。
「パズー、私恐くてたまらないの・・・。本当はラピュタなんてちっとも行きたくない。」
 という事は、前の台詞は嘘だったのかと考えてはいけない。これは私が考えるに、どちらも本心である。
 シータは要塞の中で、飛行石を持っていたシータを是が非でも守ろうとするロボットの姿を見ている。当然ラピュタには、そういうロボット達が沢山いる事は想定出来るのである。シータは肝心の飛行石は落としてしまい、ムスカが持っている訳だが、飛行石をムスカが持っていたとしたら、とんでもない事が起こるのである。本当は行きたくない。台詞の通り恐いし、どうして良いかも解らない。しかし、シータはラピュタの王女。私はラピュタに行かなくてはならないのではないか?という気持ちが芽生え始めているのである。
 これは空想で申し上げている訳ではない。ちゃんと台詞が物語っている。
「あんな石、早く捨ててしまえば良かった。」
マイナスなイメージばかりつきまとう台詞だが、実は、シータ自身がもう後には引けないという事を承知しているからこそ、こういう台詞が出てくるのである。だからパズーは、あの石があったからこそシータに会えたと、その事を感謝し、シータ1人じゃないんだと背中を押してあげたのである。
 実はシータが異なる思いで葛藤するシーンがもう1つある。それは最終決戦の場面。厳密には既に紹介した場面でもあるが、後で紹介する。
 パズーがシータの近くまで来た時、シータは壁の隙間から飛行石をパズーに託し、海に捨ててと訴える。シータはもう腹を決めており、飛行石を使えなくしてパズーを逃し、自身は死ぬつもりだったのだ。しかしパズーは、シータを見捨てる事など出来る訳が無い。ムスカと対峙するパズー。
「パズー、来ちゃ駄目!この人はどうせ私達を殺す気よ!」
「パズー、来ちゃ駄目!石を捨てて逃げて!」
結局、三分の時間を与えられ、シータはパズーに抱きつくのだが、私が初見でこのシーンを観てた時、
弟が、
「来ちゃ駄目とか言って、何やってんだ?」
などと言い出した。私が即座に、
「お前、馬鹿なの?」
と言い返したのは言うまでもない。
 何故ならシータはパズーに助けて貰って嬉しいという気持ちと、パズーだけは死なせたくないという気持ちが葛藤しているからである。これは非常に解りやすいと思う。そもそも、大好きな男の子から助けて貰って嬉しくない女の子など存在するだろうか?
 しかし、シータ性格ブス提唱者によれば、シータはパズーが助けに来てくれると解って、来ちゃ駄目とか言ってると主張するから呆れる。これもシータ嘘泣き説と一緒で、ラピュタ作品の世界観を崩壊させかねない。因みに私が紹介した場面とは、嘘をついてパズーを逃し、シータ1人で泣いたシーンの事だ。それ以外にも、見張りのシーンで「私の為にパズーを海賊にしたくない。」と言っている。
 まあ厳しく言わせて頂ければ、そういう考え方しか出来ない方はラピュタの面白さなど生涯解らないままだろう。
 話が横道にそれてしまった。シータには人間味を感じないと言う方がいらっしゃるという話は第6章の前編で挙げたが、私はむしろこういうシータの特徴は非常に人間臭さを感じるのである。むしろパズーよりもシータの方が心の葛藤は多いだろう。

 ・シータの「ドーラ化」を検証

 これは相変わらず話題になっている。かなり印象的な台詞だからだ。元はドーラの台詞、
「泣かせるじゃないか、男を守る為のつれない仕草。あたしの若い頃にそっくりだよ。」
それに対して息子達が、
「へっ!?ママの様になるの?あの子。」
と言っている。正直随分話がとぶなあと思ったが、後に、ドーラの部屋にドーラの若い頃の写真があり、確かにシータと似てなくもない。しかし、個人的には雰囲気が大部違うと思うが。
 ラピュタの話の中には、結構将来的な事を印象させる台詞が多い様に思う。だから、第7章では将来的な事を許す限り考察してみる所存だ。
 これに関しては、私の意見としてしか出せないが、シータがドーラみたいな風貌になるかと言うと、私の答えはノーである。実はちょっとだけ根拠がある。それは、シータの幼少期を回想するシーンがあるが、その時シータのお婆ちゃんが出てくる。しかし、顔はドーラに全く似てない。まあシータもこういう歳の取り方するかなと考えている。実は、初期設定ではシータがドーラの娘と設定されていた事もあったそうだ。もしその設定なら話は大きく変わるのだが。
 では、シータがドーラみたいに強い女性になるかと言えば、それは大アリであろう。パズーの炭鉱の女性達も強く描かれているし、親方のおかみさんとて逞しいが、実は20歳である。
 実はシータがドーラみたいに強くなる事は作品の中でも暗示されているように思う。シータはパズーに触れ合う事で成長し逞しくなっていき、ラピュタ庭園でラピュタ王女の自覚を持ち、ムスカラピュタの分家と解った後、ムスカに啖呵まできっている。ラピュタはパズーだけでなく、シータの成長物語でもあるのだ。しかし、だからといってガッカリする必要は無いと思う。女性が強くなっていくのは自然の摂理である。ましてや、女性から母親に変わる時などは守られる立場から守る立場に変わる訳だから当然と言って良いだろう。

 長い事シータについて考察したが、冒頭で述べた事をそろそろ・・・
「どうせ、大好きだろ?」
そう思われた貴方、なかなか鋭い。もとい、朝からそれ大正解!!(笑)
 以下の文章はそんなシータ大好き人間の戯言と思って読んで頂ければ幸いである。
 よく、シータファンの中でパズーの事をボロクソに批判している方がいる。この類の方は以前より増えた印象がある。パズーと一緒にいるからお下げを失ったとか言う人までいる。しかし、私はそういう人達を同じシータファンとして認めたくはない。むしろ、シータはパズーと幸せになって欲しいと思うのが本物のシータファンであり、でないと筋が通らないとさえ思っている。何故か?我々が見ているシータはパズーを好きになり、その事で魅力的な表情を見せるシータを好きになっているからである。シータがパズーと一緒にいる表情と、ムスカと一緒にいる表情を比較して頂ければ、御理解頂けると思う。

 次章では、遂に未開拓の地に入っていく。今までに無い考察記事としたい。
 

第6章 シータに関する考察。(中編)

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 前回にひき続きシータを考察する。
 シータ考察で欠かせないと思うのは、タイガーモスでのパズーとの見張りのシーンである。このシーンは当記事でも3回は取り扱う。シータがパズーに話す内容ははっきり言えばトップシークレットであり、それこそ、生涯を共にする事を意識する者にしか話せない様な内容なのである。勿論、滅びの言葉を使う為の布石も含まれてはいるが。
 こういったシータの心底を踏まえた上で、難題を考察していきたい。

 ・本当にシータは「強か」なのか?

 最近よく、某プロデューサーのラピュタに関する解説があると聞くが、その中にシータがパズーに助けられてからタイガーモスの厨房で働くシータのシーンが引用されている。長いので重要部のみ抜粋する。
「シータは最初と比べると、言い訳出来ないくらい胸が大きくなってて、もうこういう風に描かないと気が済まないからなんです。この時点でシータは女である事を利用し始め、その象徴として胸が大きくなってるんですね。
 監督は女性の凄さもちゃんと描く作家なんです。
シータを一目見て可愛いと思ったドーラの息子達が働いてるシータの元へ、何か手伝う事ない?と次々に言いに来て、結果全員が彼女にこき使われるシーンがあります。ここで重要なのは、監督はシータの表情を見せないんです。今時のアニメなら表情を見せた上で、お願いしちゃった。テヘッとか、そんな事全く考えてない天然なんです。みたいなやり取り
をさせるんですが、監督はどちらもやらない。シータの後ろ姿を見せる事しかしないんです。これで、シータは船の中で自分がモテているのが解っているからこそ、他の男に次々と仕事を頼んている事が暗示されるんです。でも、パズーを呼んだりはしない。自分が惚れた男だから。つまり、自分が惚れた男はこき使わず、自分を勝手に好きになったどうでもいい男はこき使うという事をやってるんです。
 シータは観客の男の子が憧れる存在だから、監督も男を利用しているとは描かない。でも後ろ姿だけはちゃんと描くという意地悪さは持っているんですね。」
 これに対する私の感想はずばり、「はあ!?」であった。(笑)ひとまず、この解説の駄目な所を指摘していくとする。
①まず、シータは胸が大きくなったのではなく、ワンピースからドーラのお古に着替えた事でスタイルが強調されただけである。この説は全く女性の事を理解してないのがバレバレである。
②シータが女である事を利用してるとあるが、まだ13歳の少女である事が完全に抜けてしまっている。そもそも①が否定されているので理論破綻であろう。シータは自分の心を写す鏡というのがこの説にはよく当てはまりそうだ。
③完全にシータがモテているシーンとして捉えているが、そもそもこのシーンの始まりは海賊のルイの登場シーンから始まっている。ルイはシータを襲おうとしてすぐ別の海賊に気付くシーンもある事から、シータがモテてるシーンでなく、海賊達の間抜けだけど何処か憎めない所を描いたシーンと解釈するのが自然である。
④パズーを呼んだりはしない、シータが惚れた男だからとあるが、これを立証するものは何一つ無い。そもそもこんな突拍子もない説が出るのは、この方がシータがあざといという先入観があり、それを正当化する為の飛び道具として唱えているふしがある。それに海賊に手伝ってもらいながらもシータは手を休めてないので、それ程シータの厨房の仕事が多い事が想像出来るし、もしパズーがいたら同じ様に手伝って貰っていた可能性があるが、それに関しては一切の言及が無い。非常に強引さを感じる説だ。
⑤シータが表情を見せていないとか、後ろ姿しか見せないと言っているが、完全に理論破綻である。何故なら、真実ならカットが切り替わるまで徹底的に後ろ姿しか見せない筈だ。監督は中途半端な事を嫌うのである。第4章のパズーが毅然とした顔をするシーンの説明でお解り頂けるだろう。しかし実際は、この後アンリがやって来て「あーっ!」て感じて顔を見合わせるがその時にシータは振り返っている。タイトル下の写真の場面が動かぬ証拠である。シータの表情が何も意図してない感じなのがお解り頂けるだろう。
 更に1番致命的な事を指摘する。
⑥シータは船の中で自身がモテていると解っているとあるが、シータにしてみれば船の中でモテていようがそうでなかろうがどうでもいい話なのである。何故ならシータはパズーひとすじ。嘘をついて別れを告げたのに決死の思いで助けてくれたのだから、余計にその気持ちが増してるのは簡単に想像がつく。現にパズーと離されて不安にしていたし、パズーに会えるチャンスが来るや一目散に見張り台へ行っている。
 シータがまずしたかった事は明白で、映画にある通りパズーに相談したかったのだが、仕事を与えられているのでひとまず取り組んでいたのである。この解説はこういったシータの心底を全て無視しており、自身の勝手な女性観を監督がこう描いてるんだと話をすり替えているに過ぎない。
 思い付くだけでもこれだけの穴があるのだが、更に驚くのは、この説を何も考えず鵜呑みにしてる方が沢山いらっしゃる事である。現に、この説明を鵜呑みにした方でシータを性格ブスと断定していた方がいた。私は持論で反論したのだが、まともな回答は返って来ずじまいだったので、何も知らないで書いたのだろう。
 皆さんは、ジブリ面接のトトロ肉食獣の逸話をご存知だろうか。現在アニメーターでご活躍されてる方のお話で、ジブリの集団面接でトトロの話になり、監督がこう仰ったのである。
「トトロはそんなに可愛い生き物ではないんですよ。トトロは肉食獣で、サツキとメイはたまたまトトロがお腹一杯だったから運良く食べられなかったんです。」
勿論監督の嘘なのだが、この事に感想を求められ、他の方はショックだとか面白かったとか仰ってたが、その方だけは事前に観察していたので、
「トトロは臼歯ではありませんか?草食動物ですよね?」
と答え、この方だけが受かったのだ。監督に言わせると、エンターテインメントを目指す方は人の話を鵜呑みにするのではなく自分で考え、しっかり観察する事が重要だという事なのである。
 前記のプロデューサーの話を鵜呑みにされる方々がもしジブリ面接を受けたら全員落第であろう。情報をそのまま素直に取るのは楽だし、理解した気持ちになるが、そういう人達は真実や真理は解らないままなのではないか。
 では、シータに強かな面は無いのかというと、実は存在するのである。見張り台を凧にしてラピュタ探索をする際、ドーラにシータは戻ってくる様言われるがシータは断り、パズーに「お願い!」と言った後、ドーラに、
「パズーもそうしろって!!」
と言う所である。何と、そう言ってないパズーをダシにしてしまったのだ。これは強かと言わざるを得ない。しかし微笑ましいシーンであり、シータが強かだけど非常に可愛らしく見えるシーンである。兎に角パズーと少しでも一緒にいたいというシータの一途さをも表現しているシーンなのだ。因みに、未来少年コナンにもこれとよく似たシーンが存在する。シータにとってパズーは、歌の文句を借りて言えば将に、「貴方だけが the one that I adore」 なのだろう。
 この例で御覧頂いた様に、シータは意外と多面性がある。(海賊を誑かすという意味ではない。くれぐれも誤解されない様に。)元々宮崎アニメにはテンプレ通りのお姫様は存在しないのである。もし私がパズーだったら、シータはつまらないどころか、今度はどんな一面を見せてくれるんだとドキドキしそうである。

 物語において登場人物の心底は大事。心底は行動原理に直結する。この事が少しばかりでもご理解頂けただろうか。心底を無視した仮説というのは的外れな結論しか出さないものである。
 しかし、こちらの題を取り上げると決めた時から嫌な予感がしていたが、この題だけで半端ない容量になった為、予定変更でこちらを中編とし、さらに後編を設ける所存である。

第6章 シータに関する考察。(前編)

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 もう1人の主人公シータについてだが、実は書きたい事が山程ある。近年、ラピュタに関する情報量が多くなり、考察も昔より大部進んだ感じだが、ことシータに関しては、かなり曖昧な情報が多く、混乱を招いている印象があるからだ。また、シータに関しては、勘違いされている事が多いと感じる。
「シータには、能動性を感じない。」
「シータは、付き合ったら普通につまんなさそ  
 う。」
「シータは理想像過ぎて人間味を感じない。」
 これまで目にしたシータの印象についてのコメントであるが、こう仰る方にこそ、この記事を御覧頂きたいのである。そして、見えなかったシータの魅力に気付き、シータのファンが1人でも増えてくれたら考察の甲斐があったというものである。

 ・シータは、自分の心を写す鏡
 
 シータは親に死なれ、1人で農業をやって暮らしていたが、ムスカに強引に拉致されこの物語に巻き込まれてしまう、実はラピュタ王家の末裔だったという設定の少女である。
 第4章の冒頭で述べているが、ラピュタは原点回帰的作品であって、共感出来る登場人物を登場させている。シータも例外ではない。実際おかみさんには「いい子」だと言われているし、ドーラに至っては、嫁にするならああいう子にしなとまで言っている。
 こういう設定があるので、私はシータ自身がその
人にどう映るかは、その人の心を写す鏡の様な存在と思っている。だから、ブリッ子に映ったり、二重人格に映るという方はちょっと要注意で、今一度自分自身を見つめ直す事をお勧めしたい。余計なお世話と怒られるかもしれないが。
 ただ、私がラピュタに関して討論した方で、あざとさは女性が生きる、繁栄する事への素直な態度であり、女性があざとさを持っているのは自然と考える方がいらっしゃって、大いに勉強になった。この方はブラックなシータを愛しておられ、その部分は完全に私と食い違う所なのだが、シータのパズーに対する気持ちという軸の部分は一致していたので、非常に楽しく議論をさせて頂いた。

 ・実はシータは「尖って」いる!

 勿論良い意味である。正しくは意志が非常に堅いと言うべきなのだろうが、そのレベルが半端ではないと思われるのでこう表現させて頂いた。
 シータは基本、敵であるムスカには決して屈する事はない。映画冒頭の飛行船のシーンで食事を出されるのだが、シータはいっこうに口にしようとはしない。パズーと出会って再び軍に捕えられた後も食事には一切口につけないのである。
 ラピュタは5日間の物語と記憶しているが、シータが食事したと思われるのはパズーと一緒に廃坑へ逃げた時と、タイガーモス号で料理を振る舞っていた時のわずか2回である。
 飛行船の話に戻ると、ドーラ一味に襲撃されたムスカが救援の為モールス信号を送っていた隙を付き、恐る恐るではあるがワイン瓶で殴りムスカを気絶させている。こういう面からも、シータに能動性が無いというのが勘違いだとお解り頂けるだろう。

 ・シータがパズーを好きになる瞬間

 シータは飛行船から落ちてしまうが、飛行石のお陰で無傷でパズーのいる炭鉱の町へ降りる。パズーに助けられ彼の家で眠り、翌朝パズーと運命的な出会いをする。
 シータがパズーを好きになるのは第5章でも述べており、当記事冒頭の写真の場面が該当するのはご存知の通りである。しかしこの話になると決まって
「そういう意味じゃなくて、人として信頼出来るとかそういう意味なんじゃないの?」
と仰る方が必ず出てくるのだ。しかし、当記事ではハッキリその説を否定する。
 何故なら、その前の場面でパズーがシータの飛行石のペンダントを発見し、見せてと言ってくるシーンがあるが、家宝同然のこのペンダントをシータは躊躇わずパズーの手に渡しているからである。この時点でシータはパズーを信頼してるのが明白であり、そういう意味なのならこのシーンに記述がなくてはならない。だから当記事冒頭シーンの絵コンテに書かれている「シータ、パズーが好きになる」は文字通りの意味と考えるのが自然な解釈である。

 ・シータの「ウソ泣き疑惑」の検証

 シータファンからしてみれば、はあ?何じゃこりゃ?と言いたくなる話であろう。私も全く同感だが、アンチのみならず、ファンの方でも意外にも指摘される方が多いので触れさせて頂く。
 要は、シータが軍に捉えられ、最初泣いてた所から、ムスカにパズーがどうなるかは君次第と脅しをかけられ、その時シータの血相が変わるシーンの事を言っているのである。この件は最初からしっかり考察したい。
 パズーとシータは海賊と軍隊から追われ逃げるが、廃坑から出た為に軍隊に捕まってしまう。パズーは独房に入れられ、シータはムスカに連れられ、ラピュタから落ちてきたロボットを見せられる。ロボットには飛行石と同じ紋章があり、要はシータがラピュタの関係者だと証されたのである。
 シータが泣き始めるのはここからである。要はシータにとって怖れていた事態が発生したのである。そもそもシータは自身がラピュタの末裔である事を恨んでいるふしすらある。タイガーモス号の見張りの際にパズーに言った、
「本当はラピュタなんてちっとも行きたくない。」
という台詞がよく物語っているだろう。シータはこれで軍に利用され、シータの自由への保証は全く無くなってしまったのだ。シータはムスカと軍に強引に連れ去られた事をお忘れなく。
「私何にも知りません!石が欲しいならあげます!
 私達をほっておいて・・・」
 厳密にはシータは自分か王女である事と、飛行石に関するおまじないと呪文は知っている。しかし、敵であるムスカに言う訳はない。勿論ムスカの言う事など信用していないだろう。平和の為なら強制連行される筋合いはない。そして、先程述べた絶望感があるからここでシータが嘘泣きしてるのは違和感がある。そもそも、ムスカを瓶で殴ってしまっているから、泣き落としが通用しない事くらいシータは解っている筈だ。
「私は手荒な事はしたくないんだがあの少年の運命
 は君が握っているんだ。」
このムスカの脅しでシータが泣くのをやめ、血相を変えてムスカを見るのだが、当然である。シータにとって非常事態であるからだ。そもそもシータは早い段階でパズーを好きになっているし、ラピュタの事でパズーを死なせる訳にはいかないのだ。
 結局、シータが王女である事も知らされて、観念したシータは、パズーを逃して自分だけが犠牲になる道を選び、パズーを思い1人で涙に暮れるのだ。この場面は、後編でも紹介する事になる。
 シータ嘘泣き説を唱える方は、何処かにシータのあざとさを感じているからそう言っているのだが、シータの心底をせめてこの程度は考えてから唱えて頂きたいと思う。
 また、シータが嘘泣きか否かは、下手をするとこの作品の世界観をぶっ壊しかねない案件なのである。それはもう第1章で述べたジュブナイルがどうのこうのの比では無い。最終決戦等でパズーの気持ちとシータの気持ちに疑いがあったら、緊迫したシーンがとんだ茶番劇になってしまうのだ。もっとも、雪の女王を敬愛される監督が、そんな話にする訳が無い。
 蛇足だが、これに関するドーラおばさんの台詞を入れておく。
「泣かせるじゃないか。男を助ける為のつれない仕草。あたしの若い頃にそっくりだよ。」
 これでもまだ、シータ嘘泣き説を唱えるのか。

 ラピュタの物語が5日間と申し上げた事について少し補足したい。初日にシータが空から降りてパズーと出会い、2日目に海賊と軍隊からの逃走も捕えられ、3日目にパズーが解放され、ドーラと共にシータ救出に向かい、4日目にシータ救出からタイガーモス合流、5日目にラピュタ到着からフィナーレまでという事だったと思う。争点になるのは軍に捕えられた期間だが、ムスカが、「夕べはよく眠れたかな。」と言っているので、日付が変わっている筈である。もし正しければ、ラピュタシェークスピアロミオとジュリエットと同じ期間の物語になる。参考までに。
 次章でもシータ考察を続ける。爆弾記事になるかもだが、敢えて我が道を行きたい。  

第5章 パズーに関する考察。(後編)

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 前回にひき続き、パズーの考察である。
 余談だが、改めてパズーという人間を見てみると、中身がイケメンであるのは議論の余地がない所だが、顔もかなりイケメンだと私は感じる。一般的にはパズーはフツメンと言われているが、私は特に
タイトル下の写真のパズーは無茶苦茶格好いいと感じる。世間一般で人気が出るタレントを見てみると、二枚目要素と三枚目要素のどちらも含んでらっしゃる方が人気が高いように思う。だから、もしジブリのヒーローが全員リアルな人間になったとしたら、1番人気が出るのはパズーなのではないかとすら考えている。

 ・パズーがラピュタに行く動機

 ドーラに仲間入りし、シータを助け出したパズーはそのままドーラのもとで働きながらラピュタを目指していく。
 お気付きの方も多いと思うが、パズーがラピュタを目指す動機は、実は最初とは目的が変わりつつある。詐欺士扱いされた父の無念を晴らすだけではなく、真の意味でシータを自由にしてあげる為という事が加わっているのだ。タイトル下の写真のパズーの表情は、将にその決意の表れである。
 ラピュタの作品に対する批判でよくあるのが、主人公がラピュタに行く動機が薄いのではないか?という事である。要は目的がハッキリしていないという事だ。パズーの台詞で見てみると、
「まだどうしたら良いか解らないけど、本当にラピュタが恐ろしい島なら、ムスカみたいな連中に渡したらいけないんだ・・・それに、今逃げ出したら、ずーっと追われる事になっちゃうもの。」
 確かにまだ手段も解らない状態なのは間違いない。しかし、これをもってして動機が薄いと批判するのは私は強引だと感じでいる。何故なら主人公は13歳の少年であり、大人が行ってるのとは訳が違うのだ。13歳の少年が、ラピュタ着いてムスカを殺して・・なんて話になっては逆にリアリティが無いではないか。
 ここで前編で申し上げた、パズーがリアリストである一面が大きく関わってくるのである。目的が定かでなくても、やらなければならない事は分かっている。だから兎に角その道を進んで行くというのはパズーらしい生き方であり、物語を破綻させないエッセンスなのだ。実際、この時点でパズーの行動に異を唱える方は極めて稀である。ラピュタに行かず、そのままシータと一緒にいる選択肢もあったなんて議論もあるが、パズーは選ぶ筈がない。自分の無力さを軍に捉えられた事で十分に解っているからだ。(それ以前に物語も進まないが。)パズーの台詞でも確認出来るだろう。

 ・パズーはシータに「告白」している!

 ちょっと第4章と関わってくる話で申し訳ないのだが、こちらも意外に重要なので取り上げる。よく、パズーとシータって、お互いの気持ちを伝えるシーンが無いから、好き同士と言われても違和感があるという意見を結構聞く。しかし、実はあるのである。広義の意味でこれは告白に当たるだろう。
「全部片付いたら、きっとゴンドアへ送ってあげる。見たいんだ。シータの生まれた古い家やヤクたちを・・・。」
 有名なパズーの台詞だが、ちょっと何言ってるか全然分かんないんだけど?と某お笑い芸人の様に仰る方の為に解説しておく。
 ロビンソン等で有名スピッツの歌に、「優しくなりたいな」という歌がある。ファンならご存知のラブソングだが、出だしの歌詞
 
 君の事を知りたい どんな小さな事も

こちらと同じ意味だと解釈して頂ければ良い。ご興味ある方はスピッツ、優しくなりたいな、で検索して頂きたい。強引では?と突っ込まれそうだが、無意識に同じ事を思ってらっしゃる方はかなりいる筈だ。
 因みに、パズーの意図はシータにちゃんと伝わっているから、「ああ、パズー・・・」となっているのである。そしてこの会話は海賊のルイにも盗聴されており、ルイがやってられねえよ!って感じの表情をしているが、監督の描写は非常に一筋縄ではないと感じるのがこのシーンである。パズーとシータが非常に良い雰囲気なのを、敢えて第三者の表情を描く事で表現している訳だから。
 すっかりパズーはシータの心の支えになっている感じだが、実はこの事は後々の展開で影響していく重要な要素である。

 ・ドーラの台詞の意味と、少年冒険活劇の限界

 ラピュタに到着し、庭園を散策していたら再び軍が動き出し、ドーラ一味が捕らわれているのを見たパズー達は、救出を試みるが再びシータがムスカに捕えられ、1人でドーラ救出に向かい助け出すのだが、その際にドーラからバズーカと弾をもらい、パズーはシータ救出に向かう。その際のドーラの台詞に注文したい。
「急に男になったねえ・・」
 私はこの台詞を考察し、意見を出していたが、ある方からドーラの口ぶりからして大した意味はないと言われたのだ。しかし、それは絶対にあり得ない事である。何故ならドーラは捕らわれの身で、余計な事を喋ると目をつけられるし、(あの時点ではまだ近くに兵士がいた。)まだ近くにいるパズーを巻き込む可能性があるからだ。だから監督が敢えてドーラに言わせていると考えるのが自然である。
 そしてその答えはただ1つ。パズーが初めてだった1人で誰かを助け出した事を暗示しているのである。思えば要塞からのシータ救出も、ラピュタの到着もドーラの助け無しでは出来なかった事である。勿論どちらに関してもパズーは大活躍してはいるが。
 実はよく考えると、この後の展開でも、パズーは普通の少年である事が尾を引いて、思うままに活躍出来ない状態なのである。最終決戦の話を御覧頂ければ解りやすいだろう。折角ドーラから貰ったバズーカはその前に弾切れして使えない。結局滅びの言葉を唱える訳だがそれにはシータが絡まなければならないという状態なのだ。しかし、この話の前に申し上げた、パズーがシータの心の支えになっている事が、そういう諸問題を目立たせず視聴者をすんなり物語に没頭させる要因になっているのである。滅びの言葉を言う決断をするのはパズーであり、パズーのイケメンな所だけがクローズアップされるこのシーンは、将にあらゆる弱点を打ち消す程の威力がある。パズーはラピュタという憧れをシータの為に壊す決断をするのだから尚更そう感じるだろう。

 パズーの考察だけでもこれだけの容量になるのだから、シータ考察では更にとんでもない量になりそうだ。実は私からしたら嬉しい悲鳴なのだが。
 次章では、もう1人の主人公シータを、前半と後半に分けて考察したい。(もしかしたら、中編もあるかもしれないが。)

  

第5章 パズーに関する考察。(前編)

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 いよいよ主人公の1人、パズーに関しての考察である。パズーは行動力もコミュニティ力も高く、かなりのハイスペックなキャラクターと言われているし、私もそう思っているが、監督の設定によれば、その熱い心以外は何一つ突出した所がない普通の少年という事らしい。これは未来少年コナンのコナンと比較すると解りやすいかもしれない。コナンは実際相手を倒してしまうからだ。流石に冒険活劇では普通の少年では動かせないので、身体能力は高くしている様だが。
 序章でも書いたが我が師の考察である。失敗は許されない。もっとも私も男、失敗しないので!!もとい、失敗するつもりは無い。

 ・パズーは、天然のタラシではない

 パズーは余りにも有名なので箇条書きとするが、早くに両親を亡くし、炭鉱の見習い少年として働きながらも、父がみたラピュタの島を信じ、詐欺士扱いされたまま亡くなった父の無実を証明する為、ラピュタに行く事を夢見る少年である。シータが飛行石と共に飛行船から落ち、パズーに助けられた事で一気に運命の物語が幕を開く訳だが、パズーの台詞をちょっと考察したい。
「安心した。どうやら人間みたいだ。さっきまでひょっとすると天使なんじゃないかって心配してたんだ。」
聞きようによっては口説いている様にも感じる台詞だ。後で紹介するがパズーの台詞には似たような物が結構ある。しかしパズーが言うと嫌味がない。それはそうだろう。本音で言っているからである。結論から言うと、特にパズーの台詞はそのまま心底に直結していると私は睨んでいる。しっかり根こそぎ拾っていきたい。

 ・実はパズーはシータに一目惚れしていた!

 第4章で述べているが、ラピュタの物語には冒険要素だけでなく、恋愛的な要素も十分に含んでいると感じる。何しろ、シータがパズーを好きになっている事が絵コンテに書き込まれているくらいである。そのタイミングは当記事の冒頭写真。パズーが僕の頭は親方の拳骨より硬いんだと言って、シータとパズーが共に笑い出すシーンである。これは結構有名だが、パズーがシータを好きになるのは何とそれより早い。
 私はある1つの場面が引っ掛かっていた。海賊に追われ親方の所へ逃げ込むのだが、おかみさんに家の中に入れられ、裏から逃げろと言われる。その際のおかみさんの台詞、
「いい子じゃないか、守っておやり。」
これは明らかに何かを含んだシーンだ。おかみさんはシータと初対面であるから性格の話ではない。明らかに切羽詰まった状況で浮いた台詞なのである。因みにパズーはその後シータの顔を見て「うん。」
と頷いている。パズーはコミュニティ力が高いので
反応も加味しておかみさんの言いたい事を理解している感じだ。
 場面は進み、廃坑に逃げ込んだパズーとシータが食事をし、会話をする所で、再びパズーの台詞、
「君が空から降りてきた時、ドキドキしたんだ。きっと素敵な事が始まったんだって。」
これで謎が解けた。パズーの台詞は、空から降りてきたシータに一目惚れしてた事をそのまま暗示していたのである。だから天使みたいに見える訳なのだ。シータをいい子と言われた後の反応とも合致する。パズーの台詞が気障だという事に気を取られていると、こういう所を見失ってしまう。
 あと補足だが、よくパズーとシータは吊り橋効果で仲が良いんだという指摘があるが、本記事でハッキリ否定させて頂く。そもそも、吊り橋効果とは吊り橋の様な不安定で恐怖を感じやすい所で出会った2人が恋愛感情に陥りやすい事を指し、アクションものや冒険物でよくあるシチュエーションなのだが、この2人に関しては冒険どころか追いかけっこすら始まってない段階で好きになってる訳だから該当しないのがお解りだろう。

 ・パズーに足りなかった「覚悟と力」

 その後ポム爺さんに会い、シータの飛行石がラピュタ人の物と知り、ラピュタの存在が確かなものになっていくと、パズーは更にラピュタを熱望するが、途中で軍隊に捕えられ、ムスカによって引き裂かれる。厳密には、ムスカに脅されたシータが直接パズーに引導を渡す訳だが、その際のパズーの台詞、
「まさか、シータ・・約束したじゃないか!」
 実はこれは巧い台詞なのである。約束してないよね?で止まってはいけない。実際は約束してないのに約束したと思っている程、ラピュタとシータの事でパズーは浮ついていたのである。第4章でも述べたがこの時のパズーはシータへの感情がまだ恋心という感じで、愛心にはなっていない。13歳という
少年だから力に関しては仕方ないとしても、パズーにはシータを守る覚悟が足りなかったのである。

 ・実はパズーは「リアリスト」である!

 シータと引き裂かれたパズーは別人の様にしょげかえっていた。おかみさんをも振り切り、家の近くで転倒。ムスカからシータと引き換えに貰った金貨を投げ捨てようとするが捨てられず、すごすごと家に戻るのだが、第1章でここは重要と言っていた。
序章でパズーはシータに裏切られたと思い失意になる事は述べているが、実はパズーが金貨を捨てられなかったのは、パズーがリアリストである証なのである。投げ捨てられない理由は、ここで金貨を投げ捨てても、シータが戻ってくる訳ではない事を本人が解っているからなのだ。勿論お金の有り難みを知っているという事はあるだろうし第1章でも述べているが。なので、シータと離された悲しみを胸にすごすご戻ってくるしか無かったのだ。実は他にもパズーはリアリストらしい行動を取っていて、列車のシーンでシータは軍隊から逃げようとするが兵士が追ってきて、パズーはその際足を出して兵士を足止めしている。ただ何故逃げるが聞くだけではない。また、パズーが海賊に捉えられた後、動こうとする海賊にパズーが仲間に入れてくれと嘆願するのは、自分に力がない事を思い知らされ、シータを助ける為には他に方法が無いと理解しているからである。そして、パズーがリアリストである事は、この冒険活劇を成立させる為の重要なポイントとなる所なので、是非抑えておいて頂きたい。
 それにしても、パズーが受けたドーラの説教はパズーにしてみれば相当重いものだっただろう。私自身からみて、あれはパズーに対して、浮ついた夢を追いかけるのか、それどもシータの為に尽くすのか、一体どちらなんだとパズーに投げかけている感覚があるのである。
 また、パズーは自身を歯がゆく感じだのではないか。シータを助ける筈だったのに、助けられたのは自分の方であると知らされ、そんなシータを少なからず疑ってしまったのだから。

 パズーについての考察だが、まだ半分ほどしか描写してないのに相当な量になってしまった。さすが我が師である。(汗) 急遽予定を変更し、前半と後半に分けて考察していく。